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聖典引用 板

313「訊け」管理人:2012/03/31(土) 08:02:37 ID:???
(つづき)


  谷口雅春先生が抱かれたお悩みというのは、すべては心の展開であり、いわゆる三界は唯心の所現であるということは解るけれども、その心が思うように支配できなくて困り果てられたのです。そして、「この心を改心して懺悔して改めてからでないと救われないのであれば、自分は決して救われることはない。改心しないまま、懺悔しないままで救ってくれる神が欲しい」と切実に願われたのでした。この悩みを拡げて解釈すれば、實相の円満完全を観ようとしてもなかなか思うように観ることができないから、實相を観られないままで、自覚もできないままで救ってくれる神(實相)が欲しいと言われたということになるでしょう。

  やがて、現象無し、不完全無し、観る観ない、自覚するしないという心も無い、實相はそのまま円満であり、この實相は完全なるがゆえに自ら出てくる力をも備えているということを神からの啓示によって知られたのでした。そして、そのとき初めて「心」というものから解放されて、「生かされている」という喜び、つまり感謝が湧き起こられたのでした。「實相は完全であるからこちらの力は何も要らない」というふうに、喜ぶのを遠慮しないことが「實相を観ずる」とか「自覚する」とかいうことであったのです。

  ですから、實相にはこちらの力というものが要らないのです。ただただ實相のみの世界なのです。實相を現象に顕すといっても、實相が自分で顕れて来るのであり、實相だけがすべてのすべてなのです。顕れる、顕れないは現象であって、顕れても顕れなくてもどちらも無いのであって、實相だけを喜んでいればよいというのが「今を生きよ」ということなのです。實相は「今」完全であり、實相だけでよい、というのが「今」ということなのです。顕すための心や時間というものは要らないということなのです。

  「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。

  「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。

  (つづく)


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