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聖典引用 板

1405復興G:2012/10/06(土) 22:23:00 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(8)
       (頭注版 p.211〜213)
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 食物は本来、人間に害を与える力も栄養になる力もない。ある人には栄養になる食品も、恐怖心をもって食すれば害になります。ある人に害になるような食品も、神から与えられた食物に人間を害するものは決してありえないということを信じて食すれば害になるようなことはないのであります。

     神から与えられた食物

 ここに大切なことはわれわれのとるべきは、何よりもまず「神から与えられた食物」であらねばならぬことであります。私心(わたくしごころ)で、「何を食らい何を飲まんと思い煩うて」えた食物であってはならないのであります。

 神は「全体の渾一的生命」であり調和の統体でありますから、神の力で循環して自分の食膳にのぼる物ばかりを食べていれば自分の健康も調和してくるのであります。
 「形の世界」は「念(こころ)の世界」の映像(かげ)でありますから、念(こころ)が整うて神に一致するようにならねば本当にその人に適する成分を含んだ食品がその人の食膳に運ばれることにならないのであります。
 分析表や栄養料理の解説書を片手に、できるだけ自分にとって適当な食品を選ぼうと思っても、それは学問上では栄養料理ということになっているかもしれませんが、また相当その栄養料理にその人が信仰をもっていましても、栄養料理ぜめで胃腸がますます弱り、体力がますます衰弱していったような実例はたくさんあります。

 元来、その人にとっていかなる食物が適当であるかは、その人の血液検査をして見てもわかるものではありません。むろん、容貌や外観では容易にわからない。同じひとりの人でも、その日、その時間によってその人にとって必要な栄養分は変わってゆくのであります。
 われわれの心の働き、感情の動かし方の相異でわれわれの血液の中にできる毒素、疲労素、興奮素その他いろいろのホルモンのでき方がちがい、その分量も質も変わって来るのでありますから、この分量と質とがことごとくわからねば何をその人に食べさせてよいかは学問ではわからない。
 だからもし今後医術というものが極度に発達して、これら人体中の生成物を完全に知る方法が発見され、またそれに従って相互に調和すべき食物の供給方法が見いだされないかぎりは医者としては患者に「あなたにはどんな食物が適当しています」などという資格はほとんど無いのであります。

 では、われわれは何を標準として食物を選択したら良いでしょうかと皆さまはおたずねになるでしょうが、――だいたい、こんな事を気にしている事からして、われわれが、宇宙の渾一的生命、大調和の統体たる神から離れた感じをもっている証拠であります。

 生長の家の立場から、何よりもまずわれわれが克服しなければならぬのは、この「神から離れたという感じ」であります。われわれは常に神のうちに生きているが故に、神から離れることは絶対にできない、離れたと思っても離れていない、離れたと思うのは「迷いの心」であります。しかし「形の世界」は「観念(こころ)の映像(かげ)の世界」でありますから、「神に離れた」という感じをもっている以上は、「形の世界」のあらゆる事柄も全体的調和を得たように循環してこないのは当然のことであります。

 われわれが栄養分の調和をうる方法には二通りあります。第一は、外から食膳にのぼる料理が自分にとって必要な成分を含んでいるものであるということであります。
 しかし、これは今申しましたように食物成分の分析や栄養学ではわからないのであります。
 それはわれわれが神すなわち「大調和の統体」と一致したとき、必ず必要なものが食膳にのぼるようになり、またその食膳にのぼったもののうちでも必要な食物に対してだけ大いに食欲が動いてくるのであります。
 われわれが、神すなわち「大調和の統体」に一致しますとわれわれは「本能」に従って行動して食物が自分に調和したものをとることができるのであります。正しい「本能」に従うときわれわれは「欲するところに従ってその矩(のり)を超えず」というようになるのであります。


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