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聖典引用 板

1390復興G:2012/10/06(土) 22:12:27 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第6章》 より(4)
       (頭注版 p.174〜177)
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 むかしから「ありま親しい肉親の者を看護させると病気に悪い」と申しますのは、肉親の者はそれだけ病人に対して直接的な物質的つながりがあるので、病気に対しても本当の真理を観ずることができず、真に病気を実在するものと思って心がうろたえ動揺しますので、その心の動揺が相手に映って病気を重くすることが多いからであります。こうして病気を真に実在すると思って心が動揺する人はメタ・フィジツシャン(神癒能力者)としてひとの病気を治す資格がないのであります。

 人間の本性――本物の人間――は物質ではない、物質は念のフィルムの映した影だという真理がハッキリ解ってきます程度につれて、その人が肉体の健康を支配する力が強くなってくるのであります。

 イエス・キリストやその弟子が病気を治したのをみましても、黒住宗忠(くろずみむねただ)が病気を治したのをみましても、決して彼らは病気を実在として研究して、その解剖学的知識がこうであるからこういうふうな治療法をしなければならぬというようなことは考えてはいなかったのです。イエス・キリストにとっては病気は無いのであるから慢性も急性も無い、いわんや不治症などはテンで存在しないのであります。ここに「生命」に対する驚くべき強き確信がある。だからキリストの治す力もまたすばらしいのでありまして、たいていは、そくざに治ってしまっているのであります。キリストは「人の生命」は神から受けたものであること、神そのものこそ人間自身の生命であること、人間の生命は神から受けた生命のほかにはないこと、その生命は不増不減絶対の完全さをもっているもので、病気などに冒されるおそれなどは絶対にないことを信じていたからこそ、あれだけすばらしい治療力を発揮しえたのに相違ないのであります。

 自己の生命の、不増不減の絶対完全な本性をば、肉体の上にも実現しようとするには、五官すなわち眼耳鼻舌身等の感覚にて感じられる不完全なすがたを本当に存在するものだと思い違えてはならないのであります。
 五官というものは、念のフィルムでうつし出した映画を見るための道具であって、フィルムの奥底でめまぐるしいほどに輝いている本当の生命を見るための道具ではないのであります。

 本当の自分の生命のすがたを知るにはわれわれは五官というものを超越してしまわねばならないのであります。すなわち仏教でいえば禅定(ぜんじょう)、古神道でいえば鎮魂(ちんこん)、キリスト教でいえば、霊の洗礼――いいかえれば「霊のバプテスマ」を受けねばならないのであります。
 「生長の家」ではいずれの宗派をも生かしつつ神との一体感を深める「神想観」という修行をするのであります。

 いずれにせよ、われわれの心の奥底の思想――思想だけではない信念までも――が、自分の生命の完全な実相(ほんとのすがた)を自覚するにしたがって境遇も健康も改善してくる。これが改善してこないのは奥底の心がまだ自分の生命の完全な本性(ほんとのすがた)が「神だ」ということを自覚しえていないからであって心の底に恐怖心があるからであります。
 われわれが何かを恐怖するとき、その何かがきっとあらわれてくる。これは切り離すことのできない原因結果の法則であって「類は類を招ぶ」の心の法則というのであります。

 一時、ドイツおよびアメリカを風靡した療法にホメオパチーといって人間にある分量飲ませると一種の病的症状を呈するような毒薬を、それと同じような症状を呈している患者にむかって「これはそれを治す薬だ」といつてごく少量飲ませると、じっさいその症状が消えてしまう治療法があるのだそうであります。ホメオパチーすなわち「同種療法」という意味で、同じような病気になる薬を使って、かえって病気を治すからそう呼ぶのだそうでありますが、これなども患者の心しだいで、同じ薬が毒にもなれば薬にもなるという実例であります。


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