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聖典引用 板

998うのはな:2012/07/20(金) 18:57:03 ID:gTn97m6I
   錦旗を護る先祖の人々

 神戸で私や清超夫婦と別れた夫は、三日後に大津その他を巡講して帰京された。
先ず巡講先のみやげ話を伺い、その話が一段落すると、三日前の神戸で見聞した事柄に
話題は転じて行った。
 昭和四十六年は夫の實父が帰幽されて満五十年目になるので、五十回忌法要を営むために、
私たち夫婦と清超夫婦と孫の佳世子との五人は、神戸の谷口家の菩提寺願成寺へ行った。
私の夫の誕生日は十一月二十二日であるが、夫の實父の命日は四月二十二日であった。お寺の境内にある墓地には、
谷口家の最も古いお墓が幾つもあったが、その中の一つの墓には元禄六年と記され、十一月二十二日と彫られてあったのを見て、
私は不思議な因縁を感じた。古い墓はみな戒名だけが彫られてあるので、姓も名も判らない。ただ墓石の前に「谷口」と彫られているだけである。
私はこのお寺の墓には何度も詣ったが、亡き姑は誰の墓とも教えて下さらなくて、唯古い先祖の墓だと言われただけであった。
今思うと、姑も余りに古いので誰の墓なのか知らなかったであろう。
しかし、烏原水源池の山の墓地のは、全部誰の墓であるかは判っている。
法要が終って本堂から廣間に移ってお膳についた時、四人の僧と親戚一同は、和やかに箸を動かしながら語り合った。
その時願成寺の住職は、「今から六百年前に、後醍醐天皇を護ろうとして足利尊氏と戦って武将の一人に、谷口泰重という人がありました。
その人が谷口先生の祖先なのです」と言われたので、私たちは驚いて住職の顔を見つめた。
家附きの娘であった姑は、「新田義貞の仲間が戦に敗けて烏原の谷に隠れ住んでいたのが先祖や」と言われただけで、その人の名も知って居られなかったので、
私たちは泰重という名は初耳であった。

願成寺は後醍醐天皇の御代よりもずっと古く、天平時代に名僧行基によって建立された観音寺が、後世法然上人の弟子住蓮坊によって再建されて名を変えたお寺であって、
いろいろの史蹟や文献を持っているので、近年住職を継がれたその人は、預かっている檀家一軒一軒のお墓について、非常な熱意をもって研究して居られることが判った。
「後醍醐天皇は、谷口泰重の忠心を喜ばれて、『菊の御紋章』を用いることを許されたのです。
その証拠がこの寺にあります」と言って、住職は私たちを墓地へ案内して、一つの墓を指し示された。
その墓は、観音開きの扉の右側には、まさしく十六菊御紋章が陰紋として彫られてあった。
寺を去る時、住職は、「これを是非お読み下さい。いろいろ詳しいことが書いてあります」と言って二冊の書物を下さった。
それは『西攝大観』という三百八十ページほどのものが、上巻(金色)下巻(銀巻)となっていて、紫の絹糸で綴じた立派な書物であった。
帰京した私は、翌日からその書物を読み初め、殊に「烏原」や「夢野」など、谷口家ゆかりの地の頃を一心に読んだ。『西攝大観』とは、
神戸を中心に摂津の国の西部の郷土史であって、神代の昔からの伝説や史実を、こと細かに記されてあった。

 中略 「谷口家の祖先は、ただの百姓ではなかったのですよ」
との住職の言葉を思い出しながら、私は嬉しい興奮で胸の熱くなるのを覚えた。
「楠木正成には菊の御紋章の上半分だけ許されたのに、谷口泰重には全部許されたのです。
大した武将だったのですね」
「新田義貞の一門だったと姑は言ってましたが」
「いや、新田義貞より上位の武将なんです」と住職は断固と言われた。私たちは勝手な憶測をしていたことに気づいた。
昔は百姓や町人には名はあったが姓はなかったから、烏原の谷に住んでいるから谷口と姓をつけたのかと思っていたが、さにあらず、
烏原の谷に住む以前から谷口姓を名乗って居られたことが判った。後略〜

『人生の光と影』 谷口輝子 著


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