>>③ a hope 様には、「web誌友会に関してはわたしもできるかぎり協力させていただきます」と言って頂きました。ありがとうございます。ぜひご協力をお願いします。
まずは、web誌友会のテーマとしてふさわしいと思われるような問題、率直な疑問の提出など、していただけませんでしょうか。そして、誌友会中は司会を補佐する気持ちでご発言をいただけたら、ありがたいです。ご意見、アイディアがありましたら、出して下さい。「司会補佐」ということで、いかがでしょうか。よろしくお願いいたします。<<
さて、今回第3回目のWEB誌友会では、次のようにさせていただきたいと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
① テキストとして『生命の實相』第1巻「總説篇」を使用し、「七つの光明宣言」を、さらに掘り下げる。
② テーマを
『わたしたち一人ひとりが、真に法燈を継承するには、具体的にはどうすればいいのか?』
とする。(※ 注1)
③ 単なる論争の場とせず、『生命の實相』の教えを正しく学び、身に体して実行すること、行動の指針とすることを目的として話し合う。
④ そのため、他人の発言は自分の意見と違ってもそれを尊重し傾聴し、徒に感情的な言葉を発しないよう気をつけましょう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ということでお願いしたいと思います。
② の(※ 注1)というのは――一般に「法燈継承」といえば外なる『生長の家』総裁の法燈継承について言われているわけですが、信徒一人ひとりの「内なる法燈継承」ということも大切なことではないか。つまり、谷口雅春先生が創刊号の「発進宣言」と言われているご文章に記された「生長の火」を、信徒一人ひとりがしっかと受けとめ受け継いでいきましょう、ということを意味しています。
『奇蹟の時は今』という、J. E. アディントン原著・谷口雅春先生訳の本がありますが、まさに「今が奇蹟の時」でありますね。こうしてこのWEB掲示板で素晴らしい皆様にお会いできていること、これが奇蹟だと思います。居ながらにして、遠方にいらっしゃる皆様ともご一緒にこうしてWEB誌友会の前夜祭ができること、これはまさに奇蹟ではないかと私は感じています。有り難いこと(なかなかめったに有り得ないこと)だと、感動しています。
さて、今回第3回目のWEB誌友会では、次のようにさせていただきたいと思います。
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① テキストとして『生命の實相』第1巻「總説篇」を使用し、「七つの光明宣言」を、さらに掘り下げる。
② テーマを
『わたしたち一人ひとりが、真に法燈を継承するには、具体的にはどうすればいいのか?』
とする。(※ 注1)
③ 単なる論争の場とせず、『生命の實相』の教えを正しく学び、身に体して実行すること、行動の指針とすることを目的として話し合う。
④ そのため、他人の発言は自分の意見と違ってもそれを尊重し傾聴し、徒に感情的な言葉を発しないよう気をつけましょう。
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ということでお願いしたいと思います。
② の(※ 注1)というのは――一般に「法燈継承」といえば外なる『生長の家』総裁の法燈継承について言われているわけですが、信徒一人ひとりの「内なる法燈継承」ということも大切なことではないか。つまり、谷口雅春先生が創刊号の「発進宣言」と言われているご文章に記された「生長の火」を、信徒一人ひとりがしっかと受けとめ受け継いでいきましょう、ということを意味しています。
ご投稿、ありがとうございます。
ところで、今回のWEB誌友会は、以下のガイドラインによって行ってきました。
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① テキストとして『生命の實相』第1巻「總説篇」を使用し、「七つの光明宣言」を、さらに掘り下げる。
② テーマを『わたしたち一人ひとりが、真に法燈を継承するには、具体的にはどうすればいいのか?』とする。
③ 単なる論争の場とせず、『生命の實相』の教えを正しく学び、身に体して実行すること、行動の指針とすることを目的として話し合う。
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この ② では特に 「具 体 的 に」 ということに眼目を置き、③ の「『生命の實相』の教えを正しく学び、身に体して実行すること、行動の指針とすることを目的として話し合う」ということを重要視してまいりました。
「胃ガンとの戦い」をやめて
神様の大いなる導きの中で
Y. N.
私は、講師の「既に癒されていますよ」の慈悲深い言葉で、胃癌との戦いをやめました。神様に全てを託すことが出来ました。教区の練成会に、一言御礼をと思い、参加しました。涙がとめどもなく流れ、御礼の言葉も出ず、ただ講師の手を握りしめておりました。多くの方に祈っていただき、「人間は神の子なんだ。病気は私の業が消えていく姿なんだ。」と自覚することが出来ました。
この喜びを多くの方に伝えねばと自然に思えるようになりました。私が喜びをもって行動すれば、まわりも変わってきます。心強い仲間が一緒に立ち上がるではありませんか。
「私が○○会場で体験談を発表します。是非来て下さい。」と、以前だと恥ずかしくて言えなかった事が、今では堂々と自信を持ってお誘い出来ます。
生かされている自分が今ここに居る。それだけでありがたい。神様の御心のごとく生きてまいります。
――この a hope さまの体験は、とても貴重なものだと私は思っています。私などは、そういうセンシビリティがマヒしてしまっています。
どうぞ、その素直な感覚といいますか、それを大切にして下さい。
「わたしの発言は素直すぎるところがあるようで、気をつけなければいけないと……」
私は、それが a hope さまの存在価値のように思いますよ。
この掲示板、web誌友会板でも、たとえば さくら様と a hope 様、どちらも神様の目をもって見れば、かわいいかわいい愛娘です。お二人とも、とても純粋な、神様を愛し、真理を追究していらっしゃる、愛すべき尊い神の子でいらっしゃいます。しかし、それぞれ個性天分が異なる面もおありのようで、お互いに不調和かと思われるような言葉を出されることもあったかも知れません。
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
けれどもわたしがここに「存在する」というのは物質的な相(すがた)で「あらわれている」ということではないのであります。形がここにあらわれていることを人は「ここにものがある」といい、形があらわれなくなったら「それは無くなった」というのでありますけれども、それはただ「迷いの客観化したもの」(forms of error)が映って出たとか消えたとかいうことを知る五官のハタラキだけのことであって、物質は仏典の各所に説かれているように、夢の如く虚妄不実のもので、親鸞聖人も「火宅無常の世界はみなもて、そらことたわごと、真(まこと)あることなし」といわれました。
>>1872 :a hopeさま。
①
>>唯神実相の真理から考えると、「悪は本来ない」のですから、その「ないはずの悪」が見えてしまうというのは、『自分のかけている心の眼鏡が曇っているから』だ、ということになるのでしょうか……? 相手の「悪」が見えてしまうのは相手に責任があるのではなく、すべて自分自身の問題だということになるのでしょうか?<<
②
>>また、生長の家の教えでは「悪はない」と言っておきながら、「虚説と和解してはならない」とも言っています。
「悪」と「虚説」はどう違うのか、はっきりとしていません。
御教示いただけるとありがたいです。<<
この「生まれ更わる」ということをまた「悔い改め」というのであります。イエスはその弟子を遣わして「悔い改めよ、天国は近づけり」と宣べ伝えしめました。この言葉は英訳の聖書では“Repent, for the kingdom of heaven is at hand”と書いてあります。この“at hand”という言葉は手近にある、そこに利用しうるように手の届くところにあるという意味であって、これから近づいてくるという意味ではないのであります。だから「悔い改めよ、神の国は近づけり」というのは、「神の国がこれから来るからその準備のために改心せよ」というのではないのであります。
① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>
② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>
③ たとい無量百千億の魔も如来の身血を侵し出すこと能わず。故は如何ん。如来の身は血肉、筋脈、骨髄にあらず。如来は真実にして実に悩壊(のうえ)なし。<『大般涅槃経』月喩品(げつゆほん)>
① 是(こ)の身は幻の如く顛倒(まよい)より起こる。是の身は夢の如く虚妄(こもう)の見(けん)たり。是の身は影の如く業縁(ごうえん)より現ず。是の身は響(ひびき)の如く諸々の因縁に属す。是の身は浮雲の如く須叟(しゅゆ)にして変滅す。是の身は稲妻の如く念々に住(とどま)らず……<『維摩経』方便品(ほうべんぼん)>
② 迦葉(かしょう)、仏に白(もう)して言(もう)さく「二十五有(う)に、我(が)有りや否や」 仏のたまわく「善男子(ぜんなんし)、我とは即ち是れ如来蔵(にょらいぞう)の義、一切衆生悉く仏性あり、即ち是れ我(が)の義なり。……如来今日、普く衆生の諸々の覚宝蔵を示す、所謂(いわゆ)る仏性なり。一切衆生この事を見已(おわ)らば、心に歓喜を生じて如来を帰仰(きごう)す。」<『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』如来性品(にょらいしょうほん)>