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聖典引用 板
1467
:
「訊け」管理人
:2012/10/20(土) 11:49:12 ID:???
『善と福の実現』158頁より謹写――
神のつくり給いしこの世界には一切の悪もなく罪もない、吾々はあるべきようにあらしめられるべく、内部の神の催しによって動かされている。自分で「こう生きよう」と力(りき)むときは、〝そのまま〟がくだけ、神の催しがくだける。来るもの、催して来るものは悉く有り難いものだけである。旧(ふる)い道徳的の眼をもって人を批判してはならない、真に民主主義の宗教は、「人を斯くあれ」と縛る宗教ではない。各人の内から催して来るところの催しをいずれも神の催しであると拝んでそのまま受けるとき煩悩もそのまま菩提(ぼだい)である。悩みは「悩み」と云う実在があらわれているのではなく神の実相があらわれようとする陣痛の如きものである。悩みを通じて実相が尚一層輝いて顕現する。しかもその陣痛の如き悩みもお産のときの陣痛が、産婦の心持で無痛分娩となったり、快楽となったりするように、神性があらわれ向上するための魂の陣痛も、それは必至のものではなく、受ける心持の如何によって苦痛が苦痛でなくなるのである。苦痛は本来無いのであって、それは如何にして人生の体験を受けるかの受け方の練習課題としてあたえられる。課題は過ぎ行くべきものであって、いつまでも課題をつかんでいるのでは進級が出来ないのである。あらゆる経験は人生の教科として与えられたる課題である。離婚と云うような人生上の悲劇も、その課題と真剣にとり組んでそれを解決するとき、そのような問題と取組まなかった人よりも其の人の魂は進化するのである。・・・・・罪は罪として掴んでいる間じゅう消えないが、罪は心の中で放ったときに消えてしまう。・・・・・
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