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聖典引用 板

141ハマナス:2012/01/23(月) 00:22:11 ID:u5mC.eb2

つづき

三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境の如何によりまして何事も、
そんなに力まないでも、何事でも、自分の日常生活が潤滑に滞りなく行われる
――潤滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、
自分の心境が何事にも滞らずに潤滑になりますから、唯心所現の世界ですから
現世がそのまま、極楽浄土の顕現になるのです。
 釈迦牟尼如来は大無量寿経をお説きになりました直後、「如来の當(まさ)に為すべき
ことはなし了(おわ)れり」と仰せられたと伝えられております。私は今まで本誌に
『碧巌録』の講義を書き続けて来ましたが、本講を以て、釈尊と同じく「谷口雅春
如来の當に為すべきことは成し了れり」と申すことにしたいと思うのです。


『碧巌録』の第九十二則の「世尊陞座(しんぞ)」の項の垂示には、
「絃(げん)を動かして曲を別つ、千歳にも逢い難し」と云う句で始まっているが、
これは支那の古典『列子』にある伯牙(はくが)と云う人と鐘子期(しょうしき)と
云う人との間に交わされた故事のことを指しているのだと伝えられているのである。

 それはある日、伯牙が琴を掻(か)き鳴らして、
「志、高山に在れば…」と上の句を歌い始めると、鐘子期は、忽ちそれは何の
曲であるかを瞬時にして察知して、
「峩々(がが)として泰山の如し」とその下の句を一緒に朗々と歌い出したと
云うのである。
つづいて伯牙が、
「志(こころざし)、流水に在れば、」と上の句を歌い始めると、鐘子期は
「洋々として江河の如し」とその下(しも)の句を合唱したとう云う。
現代の事実を以て例示すれば、生長の家から出版している「日めくり日訓」の
或る日の項の上の句に、「愛は最後の勝利者である」とあれば、
「恒久的に敵する者は無い」とその下の句を並べて書いてあるのにも似ている。
これは対句になっていて時数も互いに同数である。

『碧巌録』にたくさんの此の種の対句がある。例せば、その第九十三則の
「大光作舞(まいをなす)」の項には、挙(こ)す、僧、大光に問う。
「長慶道(ちょうけいいわ)く、
“齋(さい)に因って慶讃す”その意旨(いし)如何」
大光、舞を作(な)す。
「舞を作す」とは「全く有り難いことでございます」と 慶讃の意を動作に
表現したのである。
光云(こういわ)く、
“儞、箇のなにを見て礼拝したる哉”
僧舞を作す(まいをなす)。
 光云く “這の野狐精(このやこせい)(野狐の霊が人間に化けて出現して
人間の真似をして礼拝しているので、礼拝の意義も何も分からずに動作を
真似ているだけだぞ。そのボロが禿げたぞと喝破した語である。)


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