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聖典引用 板

454復興G:2012/04/18(水) 21:27:08 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<4>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   カミの語源について

 神といふのは「幽(かす)かなる身」或ひは「隠れてゐる身」、さういふ意味から来てゐる語であります。或ひは、輝く光明の身といふ意味に於て「輝く身」といふ意味も含まれてをります。また尽十方に神通自在に身をあらはすといふ意味で、「翔(かけ)り身」といふ意味も含まれてゐます。神は姿形が隠れてゐる「光」であり、神通自在にして何処にでも姿を現すことが出来るといふ、さういふ色々の意味が「カミ」の語意には含まれてゐるのであります。「カミ」の「カ」が「隠れて見えない」といふ意味だといふことは一見コジツケみたいにきこえますけれども、コジツケではありません。

 「カ」といふ語を考へて御覧なさい。“幽かな”とか“隠れてゐる”とか“風”とか“香”とか“霞”とか、皆かすかにして肉眼でハッキリ見えないことに「カ」がつく。影などといふのも全然影つてしまつて光がないと見えない。「かがやく」といふのは、あまり輝くものは、其処にあつても眩しくて幽かであつて見えません。「翔り身」なんかも、空飛ぶ円盤のやうにあまり速力早く翔るものは見えない。結局、「隠り身」「輝く身」「翔り身」といふ風に三つに説明できるけれども神通自在で、姿が見えないといふ意味を含んでをります。

 さういふやうに、神様は姿形が見えずして遍在であり、宇宙到る処に、何処にでも充満してをられて、吾々の生命となつてをられるのであります。さういふ普遍の本体である神様には社や神殿は要らないわけであります。しかしながら、それだけが神様かといふと、さうぢやない。今申しましたのは第一義の神様であります。第一義といふと本来の意味に於てといふことです。第二義の神、第三義の神といふと、本来の意味から多少はなれて、副次的に第二義的、第三義的な意味に於て又別の神があるといふ意味であります。

 第二義の神様と申しますと、第一義の神様――実相の神様――即ち宇宙に充ち満ちてをられて、姿かたちが見えない、無相にして無限の姿の本源の神様が、無限の姿の一つを化身として現されたものであります。例へば、観世音菩薩であるとか、白髪の老翁の姿をして多くの誌友の霊眼に生長の家の神様として現れられた神様といふやうな方であります。

 ところが第三義の神様といふのは、簡単にいへば、霊魂即ち霊魂(みたま)の神であります。(幽霊とは霊魂でも神格を得ないで、迷つてゐるものですが)霊魂の神といふのは、幽体といふ体があつて、(物質ではない一種の幽質で出来てゐる「肉体と同じやうな形」の体(たい)と思へばよろしい。)靖国神社等に神としてお祀りしてあつて、神格を得てゐられる人間の霊魂であります。或ひは乃木神社には乃木希典公の霊魂がお祀りしてあるとか、或ひは東郷神社には東郷平八郎公の霊魂がお祀りしてある。護王神社に和気清麻呂公の霊魂がお祀りしてある。湊川神社には楠正成公の霊魂がお祀りしてある。生田神社に若姫君命がお祀りしてある。槵触(くしふる)神社には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がお祀りしてある。その他色々あるけれどもこれらはみんな霊魂の神様です。

 かういふ風な神様たちはこれは「第三義の神」であつて、個別霊即ち個々別々の霊魂であります。個別霊であるからそれぞれ個性がある、それぞれ職責が異ふ、性格が異ふ、受持が異ふわけで全能でない、從つて何でも彼でも、祈ればきいて下さるといふ訳には行かないのであります。広い意味に於ては、「霊魂(みたま)の神」も神様の中には入つてをりますけれども、「宇宙の大神」ではないのでありますが、宇宙の大神の一つの表現の中心として個性的に現れてゐられるといふことに於ては皆さんと同じであります。皆さんに個性があると同じやうに、神社に祀つてある神々にも、色々の個性があるわけであります。そしてそれぞれ司る処が異ふといふことになつてをります。
<つづく>


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