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聖典引用 板

307「訊け」管理人:2012/03/29(木) 17:16:21 ID:???


WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――

 “浄まる”というコトバには、「あるべきものがあるべき相にある」という意味があるそうです。『生命の實相』によって“浄められる”というときには、本来の自然な相に還ったとき、そこに調和がもどり、争いが水でしずまるという意味で「浄」という字を使いたくなるのではないでしょうか。


  聖経『甘露の法雨』のキリストの言葉のあたりに注目してみますと、先ほどの「吾が国は此の世の国にあらず」という言葉が出てくる前に、「キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり」という言葉が出てきます。この「内」とは、すでに今ここにある實在の国、實相の国ということであります。「内なる国」とは、罪なき完全なる神そのもののすがたなのです。そこで想い起こされるのが、聖書に出てくるイエス・キリストの言葉であります。

  ヨハネ伝福音書第8章の冒頭、イエスがオリブ山において人々に向かって説教をしていたとき、パリサイ人らが姦淫の罪で捕えられた女性を連れてきました。そしてイエスに「師よ、この女は姦淫のをり、そのまま捕へられたるなり。モーセは律法に斯る者を石にて撃つべき事を我らに命じたるが、汝は如何に言ふか」と問いつめます。そのときイエスは黙っていましたが、しばらくして地面に何か文字のようなものを書いたと言われています。ここで何をお書きになったかは『聖書』には書かれていないと思うのですが、谷口雅春先生の御著『イエスは十字架に架かり給わず』の中では、このときイエスは地面に「大調和、大調和」とお書きになったと書かれています。そしてイエスは言ったのです。「汝らの内、罪なき者まづ石を擲て」と。すると群衆の中から1人去り、2人去りして、ついに1人残らず去ってしまいました。そこでイエスはその女性に「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」と言ったのです。

  この場面はよく引用されるところですが、これは「他人のことは言えないぞ、自分だって罪を犯していないわけではないのだから」と言って、罪あるレベルで突き詰めた結果そうなったのだという解釈もあるでしょう。しかし生長の家式に解釈するのであれば、「汝らの内、罪なき者まづ…」の言葉は、本当に罪のない「内」なる實相を拝んで言われた言葉であるということになるのです。汝らの内なるもの、實相なるものは未だかつて罪を犯したことの無い者であるから、そこにいるすべての人々の「内なるもの」「罪なきもの」に向かって拝んで、発せられたお言葉であったのだと解釈できるのです。そして、その罪無きものが本当に罪を打ったのです。その結果打たれた罪は消えて、そこに罪なきものばかりの大調和の世界が顕われたということになるのです。そうでないと、イエスはその女性は救ったが、群衆は救わなかったということになってしまいます。

  このときイエスは、パリサイ人が連れてきた女性に向かって「吾も汝を罪せじ」と言ったのは、神は罪を造り給わないから「汝らを罪せじ」と言われたのです。その神と同じように「吾も罪せじ」と言ったのです。もしも「他人のことは言えない。自分だって罪はないとは言えないのだから」という解釈をすれば、やはり罪ありということは依然としてそのまま残ってしまい、「汝の罪赦されたり」という罪そのものの消滅にはなり得ません。これは現象に現れた人間の姿のありようでは証明できないのです。現象的な体験からでは言えない直観によってとらえる實相世界でのことなのです。

  その後、その女性が2度と罪を犯さなかったと言えるのは實相の把握から来るのであって、現象的には未来永劫に如何なる罪も犯さなかったかということに証拠はないのです。また罪なきことは群衆1人1人に言われている言葉ですから、群衆1人1人のその後の行いはどうであったかに至ってはますますその証拠になるものはないのです。ただ言えることは、神は完全であるから完全なる實相のみがあるのであり、不完全なる現象、不完全そのもの、罪そのものが無いという大真実だけなのであります。


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