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聖典引用 板

381復興G:2012/04/12(木) 22:08:49 ID:ojEbkDH2

<つづき>
 七つは完成の数でありまして一切を包容する意味であります。燈臺といふのは世を照らす光であつて、世の光となる宗教の象徴であります。ところで、現在はまだあらゆる世を照らす光である筈の宗教が眠つてゐて其の法燈が消えてゐるのであります。もう大分眼が覚めたらしい宗教もあるのですけれども、生長の家が二十七年前に出現した時分は、大抵の宗教は眠つてをつて燈がついてゐなかつたのであります。だからどの宗教でもみな教祖の時代には、いろいろの奇蹟が現れたり、魂を本當に目覚めきせて如實に人間を救ふ事ができたのでありますけれども、それが段々弟子から弟子へ傳はり、それが「又弟子」に傳はりしてゆく中(うち)に、教へが段々水増しをするやうに迷ひで薄まつて、到頭、レッテルだけが「キリスト教」と書いてあつて中身は別物が入つてゐたり、或ひはレッテルは「佛教」と書いてあつて、中身は釈尊のお読きになった眞理がない水だけが入つてゐるといふやうな宗派ができて來ました。そして、さういふ様な中身の異るものを「キリスト教」とか「佛教」とか言つて売つてゐるといふ様な事でありますから教祖が出現せられた時代にあらはれてゐた奇蹟があらはれなくなつた。そしてその奇蹟があらはれないことを弁解する爲に、奇蹟のあらはれる宗教を治病宗教とか新興宗教とか言つて攻撃してをれば、自分の宗教が偉いやうに見えるだらうと思ふやうな間違を犯して、テンとして恥ぢないやうになつて來たのであります。イエスでも釈尊でもはじめて出現したときには、既成宗敏にあきたらないで出発した新興宗教であつて、奇蹟が続々あらはれてゐたのであります――ところがその法燈が途中で消えて居たのですから、人生といふ航路を行く舟が難破するといふのは無理がないといふ訳であります。其処で神様がそれに燈を點(つ)けなければいかん、といふ訳で、世を照らす光の燈臺である各宗の教へに、生きた火を點ずる役目として出現せしめられたのが、生長の家であります。燈をつけるのであつて、決して各宗の燈臺を壊すのではないんですから安心せられたいのであります。だから私たちは決して生長の家へ改宗してやつて來いとは言はないのであります。皆さんの信じてゐられる今迄の宗教のそのままでそれに本當に世を照す事のできる燈がついたらそれでいいんでありますから、生長の家にあらはれた神さまは『七つの燈臺の點燈者』と呼んでも好いといふ風に「新天新地の神示」に示されてゐるのであります。(後略)
<以上>


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