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聖典引用 板

1349「訊け」(:2012/09/29(土) 08:01:29 ID:???
『神 真理を告げ給う』44頁より謹写――

完全な神の分身であるあなたが何故迷うかと、あなたは問うであろう。〝迷いは何処から来たのか〟 というのは仏教でも重大な設問になっている。「〝迷い〟本来無し」と一刀両断に截ち切る解答は従来からある。それでも、「では、その本来無き迷いが、どうして恰(あたか)もあるかの如くあらわれて来るのか」という最後の問が残るのである。その最後の問に〝わたし〟は答えることにする。

                                      ○

 あなたは仏教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という語をたびたび聴いたこともあるし、読んだこともあるであろう。〝迷い〟がそのまま〝菩提〟の道程であるということである。〝迷い〟という「菩提とは別なもの」があるのではないのである。〝迷い〟と見えているものが、實は〝悟り〟が動き出し、現象化しつつある道程であるから、〝迷い〟本来無しといい得るのである。
 あなた達が〝迷い〟だと思っているものは、実は〝わたし〟が〝神の国〟を地上に顕現するための土台又は地盤になるための精神的基礎工事を行うために授けたところのものなのである。
                                      ○

 時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂(い)わば〝画布(カンバス)〟として必要なので〝わたし〟が人間に与えたところの架空的観念である。それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目をなさしめるために〝人間の心〟に対して〝わたし〟が与えたところの概念である。このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。この物質化として感じられる基盤がなければ、地上に天國を建設するという〝わたし〟の芸術を成就することが出来ないので、〝わたし〟は人間に時間空間の観念を与えたのである。
 時間及び空間は〝わたし〟の創造である。
                                      ○

 空間の観念を与えられた人間は、恰もスクリーンを与えられた人間が映写機から放射される光の波を、単に〝光の波〟として感受せずに物質界に起った具体的事象として感ずると同じ原理で、生命の波動(心の波)を単に波動として感受せずに、それを地上世界の物質的事象として感じ、その物質を具体的確固な存在として感ずるのである。地上が具体的存在だと感ずる精神的地盤が成立しなかったら、地上に天国を実現することは不可能なのだから、生命の霊的波動を物質化して感じ、地上を具象的存在だと感ずることは地上天国建設の第一歩の成就なのである。
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 しかしながら、また別の観点からするならば、生命的波動を、空間面上の〝物質〟と飜訳して誤認することは〝迷い〟の発生ということにもなるのである。そして、それが、その〝迷い〟の発生は何処から生じたかという常に投げかけられる原因になるのである。〝光〟がなければ影を投ずることもないように、〝迷い〟は地上に天国を描き出すための画布として、〝わたし〟が投げかけた影である。


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