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聖典引用 板
1579
:
復興G
:2012/11/07(水) 19:24:01 ID:vWpLkCzM
<第8回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (11)
-----------------------
喀血は自浄作用(p.27)
一度でも喀血(かっけつ)したことのある人は、こんなに咳(せき)が出てはその震動でまた喀血しやしないかと心配したがるものですが、人体の組織はそんなに脆弱(ぜいじゃく)にできているものではありません。
医者に聞けば、喀血のある肺病は悪性ではなく治りやすいのだといいます。それは当然のことであります。
喀血は喀痰(かくたん)と同じく一種の自浄作用と認めるべきもので、それがあるのは、病気の自浄作用として黴菌と悪血とを外に流しだす作用の顕著な証拠で、その人の生命力がまだ麻痺(まひ)していない、すなわち自然療能が目覚めている証拠なのであります。
だから皆さんのうちに、もし呼吸器病の方があれば、喀血歓迎、痰咳歓迎、すべてこれらは自然療能の力で起こるのであるから恐るべきことはちっともないと考えるべきであります。
この歓迎すべき喀血や痰咳をば思い誤って、「そのために死ぬだろう」と信じる。そしてわれとわが信念で病気が悪くなって死んでしまうのは、頸部を濡手拭で叩かれて死刑だと思い誤って死んだ彼(か)の門番と同様な愚かさであります。
自然の瀉血(しゃけつ)療法(p.27)
ただ大きな喀血がありますと、血液消失のために死にはしないかと恐怖する人がありましょうけれども、自然の生きる力は実に不思議な力をもっていて、その人間が死ぬほどの分量は決して出血するものではないのであります。
昔から瀉血(しゃけつ)療法といって蛭(ひる)に血を吸わせたり、血管を傷つけたりして血を多量に放出して血液を浄め、かえって新鮮な血液を作らしめて病気を治す方法がありますが、喀血は弾丸で打たれたとか、刀で斬られたとかいうのではありませんので自然の生きる力が自己調節によってこの瀉血療法をやってくれているのですから、必要な時がくれば自然に停まるので決して恐れる必要はないのであります。
小酒井不木(こざかい・ふぼく)博士も「血は出るだけ出て止まる時期が来れば自然に止まるものである。じっさい止血剤を用いなくとも、出るだけ出てしまうと、ぴったりと止まるものであって、いろいろともがくだけ損なわけである」と断言しておられるのであります。
「だけどもあなたはそんな事をいって気休めをいうけれども、どこの何某も誰某も、皆多量に喀血して血液が減って死んでしまったではないか」と反対論を唱えられる方があるかもしれません。
しかし喀血して死んだ人は、百人が百人ながら、決して喀血そのもののために死んだのではありません。喀血したから自分は死ぬであろうという強い信念で気死するか、喀血を恐れて咽喉のところで止めようとして血液が空気に触れて凝結(ぎょうけつ)した結果、窒息(ちっそく)死を招くのであります。
げに、肉体は「信念の影」であって、「死ぬ」という信念さえ強ければ頸部に水滴を一滴一滴流して出血だと思わせても死ぬ実験さえできるのですから、喀血して死ぬ人は、この自分自身の心の動揺を「肉体なる影」に映して死を招くのですから、心さえ安静にして、喀血が来たら「自然の瀉血療法」をしていただくのである、これはありがたいことだと思い、感謝して心を平和にしておれば、必要なだけの自浄作用が終ると、ピタリと血は止まってしまうのであります。
<つづく>
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