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聖典引用 板

295「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:56:51 ID:PgLin6Xs

(つづき)


――尊師曰く、
 
 それは自然に神催しにです。『我』で憂へるのではないのです。『生命』はどう云ふ形で生きねばならぬと言ふことはない。大生命に押し流されて生きる時最も自由なのです。形の方は『執して執せず』です。形と云ふものは影であるから執する必要はないのです。『生命』が主です。『生命』さへ吾れ斯くの如くして生きると云ふ筋道が立つてゐるなら、形は千変萬化しても好いのです。その反対に形は一つを貫いてゐても、形を維持することに『生命』の方が支配されてゐてはその人の生活は生きたものでありません。さうかと云つて形の方を無闇にやり方を始終かへて行くのかと云ふとさうでもないのです。しつかりと自分の魂の底に死んでも死なない生き通しの生命が自覺されて来ますと、自然に時に應じた最も適当な生き方が出来て来るのです。『我』の力で焦る生活、力む生活、かうでなければならぬと形を極め過ぎた生活は、ある時期は大いに生長してもやがては行きつまるのです。幸ひにしてその人が死ぬ瞬間まではゆき詰らないにしても、その愈々の瞬間には行詰る。ナポレオンも行詰り、豊臣秀吉も行詰つたのです。死ぬ時には、世界統一の夢も朝鮮征伐の夢も捨てなければならぬ。況んや雑誌経営などの夢は捨てなければならないでせう。吾々は死の時になつてさへも行詰らない生活をしなければならないのです。形には執して執せず、たゞ吾々の『本当の生命』が影を映して進む生活なら、死んでさへも行詰らないのです。『生命』は円い鏡には円い影を、四角な鏡には四角な影を、 一滴の露の珠にはまたそれに相應はしい小さな影を映して進みます。それを一定の形の影しか映すまいと力むとき、その人は我に捉はれたのです。形を定めて置かないでも生命が環境を通り過ぎる時必ず其処に『生命』の影たるに相應はしい美しい像を宿すのです。どの影も善い、どの影も美しい!それは恰度、寒風が露の中を通りすぎるとき、どう工まないでも六稜形のさまざまな美しい雪の結晶を造るやうなものです。人生とは『生命』がそれぞれの環境の鏡に生命の影を映して進むことなんです。たゞ吾々は『生命』それみづからの本物の影さへ投げかけて進めば好いのです。すると美しい生活の結晶は自然に出来る。そのためには自己の生命そのものの完全な本性を自覺するのが第一です。形を生命だと見ちがへないことが肝腎です。形を生命だと見ちがへるとき、それは迷ひです。形は影であるから必ず消える。形を生命だと思つて執著し切つてゐるとき、形が消えたときその人は躓くのです。だが、雪の六稜形の結品は治えてもその結品を六角ならしめた生命は滅びないのです。これが肝腎です。『生長の家』の生き方には大乗も小乗も論いてありますが、今日は大分『生長の家』の大乗的方面を読きました。貴方になら解つて貰へると思つたからです。

『生命の實相』第八巻151頁より謹写


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