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聖典引用 板

466復興G:2012/04/20(金) 12:37:28 ID:ojEbkDH2
<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(2)

   人間が出来るには人間の“設計”即ち“理念”が要る

 単に細胞がいくら増えても必ずしも人間にはならない。人間の形になるには「人間」にならせるところの“理念”又は“設計”がなければならない。ある細胞が増えて、その細胞が色々の形に排列されれば、色々の生物になる。猿になるものもあれば、犬になるのもあるし、また豚になるのもある。何がその細胞群を豚の形に列べるか。何がその細胞群を犬の形に列べるか。その“何が”という事、“主格”になるところの本体、それが問題であるわけです。

 アミノ酸のような物質は、ただ生命がこしらえた生産物にすぎない。その生産物を材料として、どういう形又は構造に列べるかというのは、そこにその形にならせるところの設計又は精神的原型がなければならないのであります。その精神的原型を“理念”というのであります。

 “理念”というのは、心の世界に出来た原型とでもいうべきところのものであります。原型というと、物質の型みたいに受取れるかも知れませんが、「生命」を“本質”としてそれに“叡智”のはたらきが加わって、生命それみずからが一定の人間の姿をあらわした霊的実在でありまして、それが「本当の人間」なのであります。

 皆さんの中には、この「人間」というものは、物質がただ単に集まってできた肉体であると思う人があるかも知れませぬけれども、肉体は「精神的原型」に肖(に)せてつくられた「人間」の皮袋に過ぎないのであります。

   物質の建物のできる迄に心の世界にその建物はできる

 今申しましたように、物質が“ある形”に集まる為にはその形の設計になるべきところの心の世界にある“型”というものが無ければその物質の分子が一定の豚なら豚の形に、犬なら犬の形に、猿なら猿の形に列ぶわけにはいかんわけなのであります。

 たとえばコンクリートが小さい分子として存在するのが、それが建物になる為には、建物の模型となるべきところの設計が心の世界に造られて、それが鉄筋なら鉄筋を柱として、コンクリートの分子がその上に設計通りに列べられて建物がつくられてゆくわけであります。即ち鉄筋の形の奥に、まだ「精神の鉄筋」とも謂うべき、精神の原型(設計)があって、その原型通りにセメントの分子が列べられて建物がつくられるのと同じように、吾々の肉体も、その成分たる分子が、精神的原型の形に列べられてはじめて人間となるわけであります。

   人間の生命の本質を礼拝すること

 人間の精神的型を「理念の人間」というのであります。「理念の人間」が「本当の人間」であって、それは「生命」を本質として叡智によってつくられたものでありますから、この本の四ページには、人間を「生命」として取り扱い次のように書かれているのであります。「そこでわれわれが『生命』を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い『生命』であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります」

 「生命」という言葉を使いますと、なにか抽象的なただ「生きるエネルギー」というような感じを与えるのでありますけれども、そういう漠然とした「生命力」というよりも、ちゃんと“一定の形”を持った、“精神的原型”という意味での「理念」という語を使う方が尚いっそう適当であると思うのであります。
<つづく>


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