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聖典引用 板

1350「訊け」(初心者さま向け):2012/09/29(土) 08:03:26 ID:???
『實相研鑽一』174頁より謹写――

自己の意識と現象生命と実相

◇現象生命は不滅か

柴山実:私は昨年地方講師補に御任命いただきました。入信しまして二年あまり、一番わからないでいつも質問しています〝実相〟の問題についてお訊ねしようと思いましたが、結局〝現象〟ということになってしまいまして、こんな問題ではどうもならないと思いましたけど、これもまた研鑽会の意義であると思いまして、勇をこしておたずねいたします。(以下質問書を読む)

 ――人間の過程は永遠であり、物質界、霊界と輪廻転生の各周期をくり返しつつ、最後の終局に達するまで、いな達しようとして〝永遠の生命の道〟を進むものであります。その無限の道をわれわれは〝自己〟という明らかな意識を持って進み、その過程において限りない神の愛と智慧とを学ぶのであります。このすばらしい自己は永遠であるとしますと、その不滅の自己意識とは、すなわち〝現象〟の意識ではないでしょうか。
 この〝意識〟のない限り〝自己〟はなく、〝自己意識〟ある限り〝現象〟であるとしますと、われわれは永久に〝自己〟であるところの〝現象意識〟と、自らが〝実相であるという意識〟との〝二つの意識〟の中にあることになります。そして一方においては〝現象〟を否定し、一方においては自覚しながら、〝永遠〟に進むのではないかと思います。この〝二つの意識〟の比較対照によって、その矛盾性によってわれわれは初めて、〝実相〟のなにものかを、〝表現〟の何ものかを学びとることが出来るし、〝二つの意識〟なくして実在すら知ろうとすることもできない。としますと、〝現象意識〟すなわち〝仮の存在〟なる〝現象の自己〟は、真の実在のようには永遠そのものではないが、永遠と区別できないほど永久のものであり、実在的のもののように考えられますが、いかがでございましょうか。〝現象意識〟を〝実在〟と対立せしめるのではありませんが、〝自己〟という〝現象意識〟の永遠性を思うとき、現象もある観点から不滅のように考えられますが、これは完全なる二元論か、間違っているのか、諸先生の御高説を頂きたいとお願いします。

(このとき谷口雅春先生より御発言あり、「あまり深遠な難しい問題を、文書を一ぺんスラスラと早口で読むだけでは、質問の内容はよく分からんですよ」と注意さる。次いで参集の各講師より意見が発表された)


谷口雅春:柴山さん、今、いろんな意見を述べられた人に対して、「私の質問はそういう意味じゃないんだ」とか、「それならこういう問題があるじゃないか」と反論を言ってごらんなさい。そうでないと、あんたの質問の要旨がよくわからない。


◇輪廻転生における意識は?


柴山実:はい、〝実相〟ということをよく把握できないで、こういう質問をするのはちょっとおかしいのでございますが、結局、われわれが肉体の世界を離れて霊界に行き、また肉体にもどり、また霊界に行き、輪廻転生をくり返しますが、霊界の各段階の高所に、無限に上がるとしましても、自己の意識はあくまでも自分の意識として残っており、これは永久に消えることがない。たとえば古今の多くの聖者も、現象から見るならば絶対に神とは一体になれない。実相そのものに入ることはできない、と聞いているのであります。そうしますと結局、いろいろの生命の過程を通じて無限に進展しましても、いつまでたっても〝自己〟という意識はなくならないとしますと、それは実相とはあくまでも別個なものと感じるのです。実相のなかにありながら、しかも自己をもって無限に進んでいくと考えますときに、それはいつまでたっても平行線で一体にはなれないということになります。自分が実相であるということは先生の御本で理論としては分るのでありますが、実相に入ることができない。しかも自己の〝意識〟は無限につづいていくというような矛盾が、常に難問として出て来るのであります。


谷口雅春:実相の中には、個生命がないという意味ですか。


柴山実:ええ、今まで私が知ったところによりますと、実相は――


谷口雅春:実相の中には、個性あるところの個々の生命はないという前提で言っているのですか。


柴山実:実相の中には〝個生命〟はある。あるけれども実相そのものは〝個〟はない、いわゆる一つの・・・・

(つづく)


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