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聖典引用 板

467復興G:2012/04/20(金) 12:38:27 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(3)

   “霊”は形がないのではない“無相の相”がある

 旧約聖書の創世記に、神様が、全てのものをお造りになりまして、最後に人間をお造りになりまして「生めよ殖えよ、地に満てよ、これを従わせよ」こうおおせられましたとあります。そして人間を造る時「神その像(かたち)の如くに人を創造(つく)り給えり。即ち神の像の如くに之を造り、これを男と女に創造りたまえり」と、こういうふうに書かれているのであります。

 神様は“霊”であって、霊的な存在である。しかし“霊”というと、やはり“生命”という言葉と似て一種の抽象的な漠然としたような存在の如く考えるのでありますけれども、決して“霊”といっても“生命”といっても漠然としたものではないのであって確固とした理念的存在なのであります。

 ただそれは、肉眼に見えないから、肉眼の方からいうと、それは無形のものである。だから、それを“無相”という。それは、肉眼に見える形ではないから、“無相”だけれども、その“無相”の中に“無限の相”を蔵している。これを「無相にして無限相」という。無限種類の原型が“無相”の中に蔵されていて、それが肉眼に見える形となって現れるのです。

 その“精神的原型”が“理念”であって、人間に於いては、その“人間”の“理念”の形に、眼が二つあり、その眼は横に切れており、鼻が顔の中央に縦に通り、その下に口が横についているからこそ、その設計の通りに、肉体人間は横目縦鼻(おうもくじゆうび)にあらわれているのです。

 ところが根本的設計は同じでありながら皆な人相が違う。人は全部顔の感じが違うのです。実にこれは驚くべきものであります。簡単に目が横に二つつき、鼻が縦につき横に口がついていて、皆形が同じくせに、各人は全然、顔の感じが異う、雰囲気が異う。それは何故であるか。

 それは皆さんの生命の内容というものが、単なる漠然とした、「生きるエネルギー」という様なものではなくて、“心の世界”に或る“精神的原型”を持った、「個性ある生命」であるからであります。「個性ある理念をもった生命」それが「本当の人間」であるわけであります。

 皆さんは、皆、横目縦鼻の人間でありながら皆異なる顔をしている。それは皆さんの精神的原型の内容が悉く違うからなのです。神様は無限でありますから、無限の理念を内に持っておられて、そして無限の精神的原型を人間として現しておられるから皆顔が異うわけです。私は人間の顔を見るたび毎に、すべて人相が異なるので、神の無限さに驚嘆し、神秘の感じに打たれるのであります。

   何故、母から出た子の血液型が母と異なるか

 世界的に有名な血液型の専門家の古畑医学博士の研究によりますと、血液型には、A型、B型、AB型、O型とかいう風に大きく分けられているけれども、細かく検討すると、全部人間の人相の異うだけ血液型も異うということであります。しかも母親の血液型とその母の生んだ子供の血液型とが異なったりするのであります。

 赤ん坊は、母親のお腹の中では臍(へそ)の緒を通して、母親の血液が胎児に循環して、その血液によって搬ばれている養分によって養われ成長して行くのであります。だから母親の血液が循環して成長してゆくところの子供であるから、母親と同一の血液型であるかと思うと、そうではない。単に唯物論的に考えたら、母親の血液が送られ、その血液が循環して成長した子供なんだから同じ物質的成分の続きとして母と子は同じ血液型であるべきはずであります。

 ところが、そのお母さんと全然ちがう血液型を持っている子供が随分沢山ある訳でありますから、母と子は単なる物質の続きでないことが分かるのです。すなわち血液型というのは血液の人相みたいなものであってその人独特のものであり、その人独得の精神内容型をあらわしているのであります。
<つづく>


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