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聖典引用 板

3151SAKURA:2014/12/06(土) 21:36:12 ID:???
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3148>>3149>>3150の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】

(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行
*========*【 まず自分に深切であれ ―その6―【 転載編 ―】*=======**========*

■では、仏とは何であるかと申しますと、これは解けることである。
いっさいの縛りとなるもの、いっさいの凝りというものから解けてしまって、解脱した状態に
なってしまう――その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、その自由自在な境地を愛する
ことができて、はじめて他の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。

 ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければならないのであります。
自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、何ものにも執われ(とらわれ)
ない、自由自在な相というものを自覚して、そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼し、
己を愛し礼するごとく、そのごとく他に対して、神の子として、仏として尊敬し、敬い、人の内に
宿っているところの実相――神性というものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を
愛するごとく他をも愛するということなのであります。

 ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、要するに自分と他とが一つで
あるという根本実相(ひとのほんとのすがた)から来るのであります。自分と他とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他とが全然別のものであったならば、自分の喜びが他人(ひと)の喜びであると
いうはずがない、他人の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。

 ですから、われわれがじぶんの好むところを他に与え、他(ひと)の欲せざるところを
他に転嫁しまいと思うのは、要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じもの
である。

同じものであるから同じように感ずるものであるという根本的な直観的認識から来るのであります。
この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは成り立たないで
いっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もないということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に他をもしてあげたいと
いう願いに始まるのですから、自分の実相が仏であること、そしてこの仏のの相とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、本当に人々にも
その人の実相すなわち仏を自覚せしめて、いかなる外のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって施しの中でも
最も尊いものとなされているのであります。

               ―その7―につづく

❤〜SAKURA


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