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聖典引用 板

1580復興G:2012/11/07(水) 19:24:50 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (12)
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    生命の本質は無限に生きる力(p.29)

 人間の本体は、調節力の無限に自由自在な生命であることを根本的に自覚しなければなりません。
 人間を物質でできた機械であると思う人だけが喀血を恐怖するのであります。
 肺臓は身体の内部にあってその血管がやぶれたら縫うこともできないから、血をとめるのにさぞや困難を感じるであろうと心に勝手な信念をもっているから、その「信念の影」なるところの肉体に自身の心の信念のとおりのことが起こってきて、瀉血の必要がすんでも血が止まらなかったりするのであります。
 これもわれわれに与えられた心の力がいかに肉体を左右するかの証拠にはなるのでありまして、人間の肉体が決して心を離れた物質ではないことを示しているのであります。
 元来、われわれの「生命」(生きる力)は神から受けたものであります。そして、われわれの「生命」は常に神とつながっているのでありまして、その神なるものは無限の生命力であると同時に、無限の知恵であり、また同時に無限の愛でありますから、常にわれわれを愛してわれわれよりも賢き知恵をもって、必要に応じて善きようにお計らいがあるのであります。
 これを信じうれば、その信念に従って肉体の生理作用も善きように調節されるのは心の力であります。
 それにもかかわらず、人間は小賢しき小さき知恵で、喀血が多すぎるから危険であるとか、喀痰が多すぎるから、病気ではあるまいかなどと、存在もしない病気――ただ、自身の「信念の影」でしかない病気――を想像してわれとわが念(こころ)に描き出すがために、その想念の映像(かげ)として「念(こころ)の影」なるわが肉体にその病気が客観化されてあらわれて来るのであります。
 すなわちここにも念の力の実証があるわけであります。

 「生命」の本質が「心」であることを知らない人は一度喀血しますと、身体を動揺すればまたその血管が破れて大いに出血する恐れがあるように想像して恐れるのですが、心さえ動揺させねば「念(こころ)の影」である肉体の血管が不必要に破れるということはありません。
 後ほど外傷から移行した肺病の患者さえ、翻然さとったその日から血がとまった例をあげますが、小酒井医学博士のあげていられる例によりますと、田舎の人などはいわゆる「医学」を知らないから、患者が喀血でもすると、背中をたたいて血を止まらせようとします。それがまた実際大いに効を奏して血がとまるそうであります。
 ふつう、医学の方からいいますと喀血は血管が破れているのであるから、その血管が癒着するまでは絶対安静を必要とするのは物理上当然のことであります。それに、絶対安静どころか、かえって背中を叩いて大いに肉体を動揺きせても血がとまるというゆえんは「背中をたたけば血が止まる」という信念が強く肉体に作用する結果でありまして、肉体というものは決して物理的法則に支配されるものではなく、心の法則にこそ支配されるものであること
<つづく>


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