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聖典引用 板

3063a hope:2014/10/05(日) 17:45:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第14巻 

『現象界は実相生命の芸術』 p77〜79

そこで実相独在、真我独在、すでに絶対神と同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の不完全なる「我」は無いとしたならば、
この現象界(現世および霊界)は「我」の進歩の過程としてなぜ顕われているかということになるのであります。

それは現象界は実相生命の芸術としてあるのであります。
それは芸術であります。
実相生命が描き出した影に、形象化して描き出さんがためであります。

活動写真は影の芸術である。
それと同じように現象世界は影の芸術である。
実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。

ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、映画にはスクリーンの空間的光袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、ここに時間空間的展開があらわれているのであります。


優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけをとらえるのではない。
時間空間に投映されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、
その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。

芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を、把(つか)むのであります。
だから、芸術家は凹凸さまざまな不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。
ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、
そこのわれわれは生命の美を感得するのであります。

言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠け像を塑作していても、
鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。
さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑作しながら表そうとするのが優れたる芸術家なのであります。

ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」としえみるのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、
そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう ―― というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。
されは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。


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