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聖典引用 板

613復興G:2012/05/08(火) 12:06:57 ID:ojEbkDH2


   清 寂 の 生 活
 (谷口雅春先生『叡智の断片』14〜15頁より)

 道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。一切の対立がなくなることである。一切の対立がなくなるから一切に和解し、一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂である。これが茶道の清寂であり、そのまま清まる日本の道である。対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。それを大和(だいわ)の道と言う。構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である、全即一であり、一即全である。
 本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。


  「悪」に抗することなかれ (同上 35〜37頁)

「悪に抗することなかれ」と云うキリストの教えは、生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示によって完成するのである。悪に抗して悪を一時排斥し得たとしても、それは「悪」の存在をみとめているがゆえに、それは存在するところの悪を抵抗によって一時遠ざけたに過ぎないのであるから、「悪」の存在が消えたのではないのである。それは一時締め出しても、亦あらわれる。厳重な家庭に於ける制裁や処罰や威嚇による強制はこれである。何物に対しても和解せず、単に抵抗によってこれを退けんとする者は、結局、空しく抵抗して何物をも支配することは出来ないのである。其の支配は、天地一切のものと和解することによってのみ得られる。天地一切のものと和解するとき、天地一切のものは汝の味方であり、こちらを生かすためのみに働くからである。「悪」を消滅する道は「悪」をみとめないことより始まる。闇をみとめながら闇を撲滅せんと欲しても、到底それは不可能のことである。
 如何に敵対する者も敵だと思わずに味方だと思って愛すればその情愛に感動して、敵と見えていたところの相手が味方にかわるのである。病気の症状に於いても此の事は真実である。熱を敵だと思わずに、味方として愛すれば速かにその熱のために病菌は消滅してその病いは癒えるのである。疼痛、喀血、吐血、発疹、下痢、嘔吐――ことごとく敵だと思わず、治す働きだと――感謝して受けるとき、それは味方となって却って病いを撲滅し健康を回復してくれるのである。凡そ「悪」よりして善徳は生ぜず、「悪」よりして生かす力は生じない。「憎み」は悪であるから「悪」を憎むと云うことは結局は、「悪」に対するに「悪」をもってするに過ぎないのであるから、それは永久循環して再び「悪」は姿を顕わすのである。ただ「善」のみを認め、一切を「善」と信頼して感謝して受ける無抵抗のみが「悪」を消滅する力であるのである。「悪」に抵抗するところの心境に於ては尚「自我」が滅していないのである。ただ相手の利己主義を遠ざけんがために、自己主義の利己を護らんとするに過ぎない。真に「悪」に無抵抗になるときにのみ、それは「自我」さえも滅し去って、ただ「神」のみ、「善」のみ、実相のみが現前するのである。そのとき「真の自我」実相の自我、絶対自我が本当の姿をあらわして自由自在の境地に達するのである。
<つづく>


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