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聖典引用 板

1402復興G:2012/10/06(土) 22:21:08 ID:vWpLkCzM

<第7回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第1巻
  《實相篇(上)光明の真理 第7章》 より(5)
       (頭注版 p.204〜206)
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 「生長の家」では、いわゆる「健康法」だの「衛生」だのというものを無視してはしまいますが、わざと不養生をしたり、不衛生をしたりするようにすすめるのではありません。「心」が「迷い」から解放されて自然にかえり、「生命」が順に正しい自然の道にのるようになると、直覚と本能とに導かれて、おのずから生活が本当の自然になります。
 生活が本当の自然になれば、生活全体が健康法にも衛生にも自然にかなうようになって、今まで人為的に生活が健康法に適うようにと心がけていたものが、今度は本能的に健康法に適う生活ができるようになるのであります。

 正しい本能は誤れる人知の小細工よりもわれわれを健康に導いてくれるのであります。鳥獣は、彼らが自然の山野に生活しているかぎり、完全に健康であって決して病気にならないのであります。雪を踏んで歩む熊も、露にぬれて餌をあさる小鳥も、寒さに負けて風邪を引くということはない。それは生活が正しい本能に導かれ、自然に健康法にかなう生活をしているからであります。
 ところが山野の鳥獣を捕獲してきて人間の雰囲気内につれて来ると、いろいろと暖房装置に気をつけてやっているにもかかわらず、ともすれば病気にかかったり風邪をひいたりするのであります。これから考えてみましても風邪をひくというのは必ずしも寒さのためではなく、生活が不自然になったからだということがわかるのであります。

 別所彰善(べっしょしょうぜん)氏の著書のなかにもお腹をこわしてもうほとんど動けないようになった猫をかわいそうに思って、どうせ死ぬなら暖かい柔らかな蒲団の上で死なせてやりたいといたわって柔らかな蒲団の上に寝かせてやると、いつの間にかそこを逃げ出して冷たい土の上へ腹ばいになって、腹を冷やしてジッと死んだようになっている。これではよけい病気に悪いだろうと思って、またまた柔らかな蒲団の上へ連れて来てやると、人の見ている間はそこにジッとしているが、いつの間にかまた冷たい土の上へ腹ばいになってジッとしている。
 ところが、ちょっと人間知では衛生に悪いと考えられるようなお腹を土で冷やすということが、かえって自然な健康法であるということをこの猫は知っていたのであって、この自然的健康法が効果をあらわして、しだいにその猫が元気を回復してきたという実例が書いてあるのであります。

 とにかく、人間は「自然に還る」ということが必要であります。自然的健康法ということが唱えられますが、生活の形式を自然に還すまでに「心」を自然に還す、すなわち「心」から迷いをとり去るということの方がいっそう必要であります。心が自然にかえれば、生活の形式もひとりでに自然に還るようになってきます。

 食物の嗜好(このみ)などもおのずから変わってきて、自然に健康的食物が好きになってくるのであります。『生長の家』を読み出してから、いつの間にか食物の嗜好が、以前には濃厚な肉食が好きであったのが、近ごろはかえって淡白な野菜が好きになったといわれる方もあれば、酒やたばこが前には無くてはたまらなかったが、このごろは喫(の)むまいと思ったら無くてもすむようになったといわれる方もある。以前には甘味品が好きであったが、近ごろは砂糖気のあるものは好まなくなったという人もあります。
 つまり、これは『生長の家』を読んで「心」が実相を悟った結果、実相の反映として、その人の生活が自然に還るようになったのだと思われるのであります。

 どんな修養でも、外から、形の方から「これは悪いことだからやめましょう」というふうに矯(た)め直すばかりで、内から「想念(こころ)」という映源(フィルム)に正しい相(すがた)を描かなかったら、一、二回は無理に抑えて正しい生活をしてみても、その抑えることが苦しくてたまらない。内から「想念」が反発して来て不健全な生活へ誘惑する、そしてついにその誘惑に負けて外の生活の形もやはりまた元の不健全になってしまう、そこがいわゆる世間の修養というものの欠陥であります。

 修養は外から直してゆこうとする。ところが「生長の家」はうちから、心の根本の自覚から変えてゆこうとするのであります。


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