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聖典引用 板

407「訊け」管理人:2012/04/15(日) 09:58:36 ID:???

(昨日のWEB誌友会に関連し)榎本恵吾先生ご文章を謹写――


 「いや、私は、釈迦やキリストとは同じではありませんから、これから徐々に修行を積んで、やがて神の子とならせていただくのでございます」という人があるかも知れませんが、これは一見、神に対して非常に謙遜のように見えるのですけれども、また、それだからこそその道を選ばれる人が多いのでありますが、これほど神に対して不遜なことはないのであります。それはつまり「神さま、あなたが完全でありますならば何故、私たちと釈迦やキリストや谷口雅春先生と差別をつけられたのですか。あなたは全能かも知れませんが、私のようにこんなつくりそこないもありますよ。」と言って、心の底では神を恨んでいるということになるのであります。即ち、神をもっとも尊び礼拝し、祝福申し上げて、神に対して素直なる神の子たり得るためには、どうしても「神さま、あなたのお創造(つく)りになられたものには不完全はありません。すべては完全で、つくりそこないは一つもありまん。したがって、私もこのまま完全であります。ありがとうございます。」と喜ぶ以外にはないのであります。そのほかに、“ある時間の後に完全となる”ということを認めたが最後、それが、どんなに、善意に満ち、努力精進のたまものであっても、神を軽蔑したことにしかならないのであります。

 「七つの燈台の点燈者の神示」の冒頭に、「今、すべての病人は起つことができる」と録(しる)されていますが、これは、「今、すべての人々は聖使命菩薩として起つことが出来る」ということが示されているのです。今、すべてのものは輝く聖そのものとして、すべてを輝かせるものとして、起つことが出来る。神さまと同じようにいちじるしく輝く、すべてを輝かせ、すべてを生かす側に立っていることが唱われているのであります。「すべての病人」というのは「生長の家に入っている人も、いない人も」ということであります。「生長の家」という形に入らなければ神は光りとして立たせることが出来ないというのでは、神一元の教えである生長の家の外であることになります。天地一切のものを神として、光りとして、聖なる輝きとして感謝し、拝ませていただくのが生長の家であります。「今、すべて」ということが神の創造の完全性を表現しているのであります。「今」というのは、「このまま」ということであります。如何に不完全があるように見えていても、それはすべて神の創造ではなく、現象の仮相にすぎないのです。ここに、すべてのものはそのままで「聖なる姿」を顕わすのです。


全文:http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65631409.html


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