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聖典引用 板
283
:
「訊け」管理人
:2012/03/22(木) 21:17:23 ID:???
WEB「榎本恵吾記念館」文書館より謹写――
素直に素直に、この「招神歌」の中身を受け取るのを遠慮しないことが大切です。第一のものを第一とすることです。第一とは神であり、實相であり、そのまま円満ということであり、「生きとし生けるもの」が、神そのものとして、神に愛され生かされているということです。はっきり言えば、“そのままでよい”ということです。“そのままでよい”と言えるのが實相であり、“そのままでよい”と言えないものは實相ではありません。
神に生かされていることを喜んでいるとき、我が要らなくなり、消えて、そこに感謝が輝いているのです。また、そのようなときにこそ「聖使命菩薩讃偈」の中に示されているような菩薩が、そこに世の光として立っているということになるのです。
「感謝しないと現れてやらないぞ」「愛行をしないと現れてやらないぞ」というのでは、これほど冷たい「神示」や「お経」はないということになります。それを全部自分の力でやってからでないと神が顕れないというのでは、神が顕れるための、生かされるための準備ばかりをしているのであり、それでは今ここには神は在さないということになります。生かされるための準備は何がやっているかというと、我がやっていることになり、また一方では我がないのが感謝なのですから、もう何が何だか解らなくなり、結局は「できていない、できていない」ということになってしまうでしょう。それでは永遠に感謝はあり得ず、ついに「生長の家ほど神に遠い教えはない!」という結論になってしまわないとも限りません。
しかし、断じてそうではないのです! 今第一のものを第一として、「生きとし生けるもの」として生かされていることを喜べば、それがそのまま感謝であり、世の聖なる光となっているのです。
生長の家では、神の愛が姿形をとって現れ給うたのが父母であると教えられています。父母は神なのです。父母は、「御祖神」の「みおや」なのです。ですから、この神を遠慮してしまうと、父母のいのちの流れから外れてしまうことになってしまうのです。
神のことを“親様”と言うのですから、神は父母そのものであり給います。親様である“神”に生かされている、愛されている、または生かされていてよい、愛されていてよいということを素直に“ハイ”と受けとめれば、父母に素直になっていることであり、感謝していることになっているのです。こちらの力のいらない教えです。“ハイ”と受け取るしかないという教えです。受け取る側は、遠慮しないことだけでよいという教えです。感謝する行為さえも神さまに全托できる教えであります。もちろん愛行もです。常に、常にこちら側にいて味方となってくださって居るのが神です。
神はすべてのすべてであり給うのですから、神が味方であり給うということは、天地一切のものが味方であるということに他ならないのです。これだけはこちらでやらなければならない、ということが一つもなく、丸もらいの丸儲けができるのが生長の家であり、感謝の教えだという意味です。
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