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聖典引用 板
2888
:
a hope
:2014/06/01(日) 07:45:42 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆
「生命の實相」第13巻 p117〜
子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。
すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。
で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。
客観世界からただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。
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