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聖典引用 板
2518
:
a hope
:2013/09/05(木) 07:48:05 ID:dyDQLtZQ
(
>>2516
つづき)
「生命の實相」第11巻 万教帰一篇上 P23 4行目〜
こんな理想世界が果たして来るのであろうかなどと疑われる方もあるかもしれませんが、
来るとか来ぬとかいうことは、われわれの第二念の世界(映像(かげ)の世界)だけのことでありまして、
神の第一念の世界(実相の世界)においては神の創造の最初から無限の未来を通じて現在にこの理想的大調和の状態にあるのでありまして、
これからいろいろ工夫し改善されて来るというような緩慢(まだる)っこいものではないのであります。
今現に実相世界は完全に大調和の状態にある!
これを悟ることが真理を悟るということなのであります。
この完全な大調和な理想世界が今現にあるということを悟らないで、歪な「迷いの色眼鏡」をかけて眺め、
いたずらに相争い、相犯し、相恐れるものでありますから、真理の光線が屈折して、まん円(まる)いものも、
歪な形を映し出しているのがこの現実世界であります。
結局、これは「迷いの色眼鏡」をかけているがためでありますから、真理の正しい眼鏡をかけて事物を眺めるようにするならば、
実相世界はそのままの大調和の状態がこの映像(かげ)の世界(現実世界)に現出するのであります。
キリストは「み心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」と祈られました。
この祈りは天(すなわち霊なる実相の世界)にはすでに神意が実現して大調和の状態にある証拠でありまして、
「実相の世界」がすでに大調和の状態にあるがごとく、現実世界もまた大調和の状態を現出せしめたまえと祈られたのであります。
釈迦は『弥勒菩薩下 生経』において末法の世が過ぎ去れば弥勒菩薩が下生して来たまい現象世界にも
大調和の世界が実現して来るということを予言していられるのであります。
これはキリスト教で予言されているキリストの再臨ということにあたるのでありましょう。
しかし、肉体は「念の映像(かげ)」でありますから、肉体をもった弥勒菩薩が下生して来られるとか、
肉体をもったキリストがこの地上に再臨し給うとかいうことは、真実(ほんとう)ではありますが、
「映像(かげ)すなわち肉体の世界」に捉われず、常に「実相の世界」を観たとき、
現実の世界の不調和が忽然としてわれわれの眼界から消え去るのであります。
そのさまはちょうど『黙示録』の第二十一章に書かれております。―――
○我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前の天と地とは過ぎ去り、前の海も亦(また)なきなり。
我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく備えして神の許をいで、天より降るを見たり。
(『ヨハネ黙示録』第二十一章 ―― 一〜二)
このように新天新地というものは天から降って来るのであって、現実世界だけにいろいろ改造運動を施してでき上がるものではないのであります。
天から地へと降って来るというのは「実相の世界」から「現実世界」へ映って来ることをいうのでありまして、
完全な「実相世界」そのままの相を「現実世界」へ映し出すには正しいレンズがいる。
この正しいレンズとはなんであるかといいますと、真理を悟った心――すなわち「サトリを開いた心」であります。
われわれが真理を知り、サトリを開いたときに、忽然「みこころが天になるがごとく地にも成る」
――すなわち新天新地が「実相の世界」から天降って来るのであります。
そのときに初めてわれわれは、「神と人とが一体であり、死もなくすべての悲しみもないのが人間の本来である」ことがわかるのであります。
(以下、略 謹写終わり)
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