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聖典引用 板

2851a hope:2014/05/16(金) 09:25:27 ID:cEpBaIdo
>>2850 つつき)
では神を愛するとは、「自分が神の子である。神の子である神の生命とは一体である」なお、極言するならば、「自分は神そのものである」との中心自覚がととのってこそわれらは完全に神を愛しうるのであります。この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、たとえば「継子を愛する」のと同様、自分と一体でない生命を愛しようといういたずらな努力の愛になってしまって、本当に完全に愛することはできないのであります。

だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、イエスの口調を借りていえば、「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命(いましめ)なり。この中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに調うべし」であります。われらが、「神と一体である」と認めることが決して神を冒涜するゆえんにあらず、かえって、「神と一体であると認めないことが神を愛しないことになることがわかったでありましょう。

わたしはこの序論の冒頭に、「人生の目的とは、要するにこの世の神の生命を顕現することにある。神がこの世にあらわれた生活を示現(じげん)することである」と書きましたが、われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず、神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、神なる生命をこの世に示現することができるのであります。本来、人が神でないならばいくら努力しても神の生命をこの世に示現することはできない。そして「神」のみが「善」であるから、本来、神でない人間がもしありとすれば、彼らはいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになるのであります。


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