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聖典引用 板
121
:
うのはな
:2012/01/16(月) 10:37:44 ID:El6gIMAw
あたたかき御手のうちに 谷口恵美子
「お父様、ありがとうございました・羽化登仙なさったのですね。」
私と上野さんは、父のベットの両側にひざまずいたまま、あたたかく柔らかい父の手を、
両方からそれぞれの合掌の手の中に囲むように、そっと持ってうつむいて泣きました。
「先生が....」「え?」と上野さんの視線を追うと、閉じた父の左の目から、ひとしずくの
涙がスーッと耳の方につたわりました。
「きっと皆様とのお別れの涙なのね」こんなときにも、私は自分の父でありながらも、多くの方達の
大いなる父であることが忘れられずに心の中でつぶやきました。
「きれいなお顔になさって・・・」と私は父のやわらかい髪を撫でながら、その清らかな美しさにみとれました。
九十一歳なんて、とても信じられません。
「上野さん、ありがとう、ほんとに有難う・・・」
夜の間、一緒にいてくれた雅宣が、父の安らかな呼吸と血圧の安定をみて、公邸に戻るといって出てから十五分くらいの間の出来事でした。
電話を掛ける暇もないほどでした。すぐ来るという母には、間もなく帰りますから、そちらの準備を、と頼みました。
夫は、盛岡から昨夜帰り、長崎へ向おうとしているところでした。
公邸に向った雅宣は途中から戻り、貴康たちも駆けつけて、お祖父様とお別れをしました。
「おしゃれなお祖父様でしたから.....」と、おひげやお爪を、それぞれの想いを込めて、きれいに整えてあげました。
「あんなに沢山の原稿を書かれたのに、ペンだこもできていないんだなあ....」と、どこにも万年筆を持ったあともない、やわらかい指を
雅宣は感心して撫でていました。
父と共に公邸に帰り着きますと、母は、二日前に偶然に贈られた白羽二重を、昨日一日で縫ってもらったという話をして、父に着せるのに
間に合ったことを不思議がっていました。
今回、長崎を訪れた私は、最後の十一日間を父と共に過しました。
食事をほとんど召上がらないと聞いて、東京を発って長崎に着いたとき、特に変った様子もなく、父はベットにいました。
食事の時間になると、いつものように椅子に腰かけ、食前の祈りをする父でした。
けれども箸を取らないで、ただ腰かけたまま、私たちがおしゃべりしながら頂くのを優しい眼で見ていました。
父はふと私を見て尋ねました。「恵美子さんは、どうして此処に来る気になったのですか」
「お父様が、あまり召上らないと聞いて、ちょっと来てみました」
「あなたが来たら、食べると思いましたか」私は当惑しながらも、以前に一度そのようなことがあったので、
「ハイ」と答えました。
父はそれに対しては何も言わないで、召上るものをおすすめしても、わずかに微笑みをたたえた顔を横に静かにうごかし、
端然と腰かけたままでした。
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