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聖典引用 板

804金木犀:2012/06/08(金) 10:45:37 ID:j28jHRaM
国の生命と自分の生命は一つである  谷口雅春先生
(『生長の家』誌昭和52年8月号より) (3)


人間は神様のアイディアの具体化

さて、人間の生命というものは、そういう神様の自己顕現でありますが、人間の生命だけではなく、他の生命という問題をも考えてみたい。

最近、私の書いたものが集まって、『国のいのち人のいのち』という書物が出たのですが、そこに詳しく出ていますが、日本国がどうして誕生したかという問題がある。日本国の生命の発現の原点とでも言いますか、それはどこにあるかといいますと、それは『古事記』にあるように、天照大御神様の御心の中に発現したわけである。全てのものは神様の生命の中にあるところのアイディアの具体化であります。聖書のヨハネ伝には「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり……」とありますが、この場合の言(ことば)とは、神様の生命のエネルギーの上に乗っているところのアイディアであります。アイディアというものは、いたるところに充満している。

例えば冬になって雪が降ってくる。あの雪の結晶を顕微鏡でのぞいてみると、六稜形の美しいデザインがちゃんと出来ている。それが、細部の構図まで皆同じかというと、六稜形という輪郭は同じでも、その中の細かいデザインが一つ一つ異(ちが)うというのです。無数のアイディアが宇宙にあって、ある条件が整えばそれが形になって現われて来るということになるのであります。

終戦後間もなく、私が東京から九州の島原の方へ講習に行った時、正月のことでしたが非常に寒かった。寒いけれどもその時分は物資の欠乏で暖房などはなく、徐行の汽車ですから、東京から行くととこかで夜行にならなくては仕方がなかった。その時も九州のあたりで夜行になって、夜が明けた。すると汽車のガラス窓に実に美しい絵模様が出来ているのです。吾々の吐く息の水蒸気の分子の結晶が、金魚藻のような、あるいは正月の鏡餅の上に飾るウラジロのような、隠花植物の葉や枝のそのデザインが、ずうっとどの窓にも結晶しているんです。それは同じ水の結晶であっても、あの雪の結晶とは形が違うのであります。神様の心の中には無数のアイディアが初めからある。隠花植物のようなアイディアも六稜形の雪の結晶のようなアイディアもある。しかし、その中から、それが現れ出るのにふさわしい条件が整うたものだけが形となって出て来るのであります。

それは恰度、無限のテレビ番組が放送局から送られて来ていても、波長を合わせた番組だけがテレビ・セットの画面の上に浮かんで出て来るようなものです。

私はその汽車の窓ガラスに浮かび出た絵模様を見て、非常に神秘の感じに打たれたのでありますが、後に、あの「牝鹿の脚の話」で有名なグレン・クラーク教授の別の本を読んでいると、こういう話が出て来たんです。

ガラスの表面に水蒸気の水滴が結晶するときに、暗い夜半に結晶すると隠花植物のような姿が現れて来る。ところが、同じような温度で、同じ汽車の窓のようなガラスにおいて、昼の明るい太陽の光線を当てながら結晶させると、バラの花のような又ボタンの花のような美しい花の姿にその水滴の結晶があらわれるというわけです。そういう実験をクラーク教授は書いているのです。

この世界には無限のアイディアがあるのだけれども、そのアイディアの、放送局が神様みたいなもので、その受像機つまりテレビセットが無限のアイディアの中からそれを受けとる波長になった時に、ある場合には隠花植物、ある場合には顕花植物の素晴らしく明るいバラやボタンの花の恰好のものがそこに現われて来るという訳なのです。


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