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聖典引用 板

3028a hope:2014/07/18(金) 22:28:44 ID:cEpBaIdo
>>3027 つづき)

イエスが「サタンよ去れ!」と一喝した後にイエスの世界は変貌した。
それは悪魔に取り巻かれた世界から天使に取り巻かれた世界へと変貌したのである。
イエスはその後も食事をとっているのである。
しかしそれは今までのように、悪魔によって供給された食ではない。
換言すれば他から奪って得たところの食でもなければ、殺生によって得たところの食でもない。
それは天使が彼に捧持(ほうじ)する食物であるのである。
形から見れば、三次元的空間的立場から見ればやはり悟前の生活も悟後の生活も同じであるかもしれない。
あるいは異なるかも知れない。
それはおそらく異なるであろうが、それは異なるにしても空間的立場からはやはりイエスは空間の制約の中に生活している。
しかしイエスの自覚はもう空間的立場を超えているのである。
「われは道なり、真理なり、われは復活なり、生命のパンであり、尽くることなき生命の泉であり、われに汲むものは永遠に渇(かわ)くことなし」という、彼の自覚はもう三次元的空間的存在の意識から超越して、無形の真理であり、道であり、生命であるという境地にまで高昇(こうしょう)したのである。
この境地に高昇したときには、すでに相対的善悪形式的善悪は超越せられてしまっている。
そこで「上衣(うわぎ)を取る者には下着をを拒むな」と無抵抗であるかと思うと、その無抵抗という形すらも飛び超(こ)えて、縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐(お)い出す――それがすべて人時所にふさわしきところの三相応の「善」となる。


およそ「善」とは「十里の公益を強いられて二十里を行く」ことでも、「縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐い出す」ことでもない。
また必ずしもその反対を実行することでもない。
それでは、また心の赴くままに滅多やたらにふしだらにやりたいとおりに実行することでもない。

「善」とは形ではないが、形を破ることでもない。
形に捉われないということにもとらわれないように超越しなければならないのである。
形に捉われず、空に捉われず、自由自在ということにも捉われず、それではどうすればよいか、※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
いっさいの空間的認識の私的立場(自分の角度から見た判断)から脱して、法的立場または宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。


法的立場から叩き伏せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、看過(みの)がすべきものは看過がす――そして、それで人時所相応の「善」となるのである。

「神があらわるれば善となる」のであって、われらはまず「神」を把握しなければ「善」を顕現することもできないし、「調和おのずから備わる」ところの人時所相応の善を奉行(ぶぎょう)することもできないのである。


※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)・・・言葉を亡(うしな)い、思慮を絶すること。
(頭注より)


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