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聖典引用 板
1202
:
うのはな
:2012/08/29(水) 18:52:39 ID:XnNLNTjU
『生命の實相』第8巻 観行篇 P43 谷口雅春 先生著
われわれが執着を脱する程度に従って、計らいの心が無くなる程度に従って、
みがきをかければかける程度に従って、内から多量に光を放射するダイヤモンドのごとく、
内から示されてくるものが「神示」であります。
執着の念をもって「神示」をきくがごときは自己撞着のはなはだしきものであります。
われわれはその本姓において神でありますから「神示」を聴くということは、霊媒的素質の有無
にかかわらず、自己の執着を脱する程度に従って、完全にできるのであります。
「真の人間」は神である。だからわれわれが我執の皮をはいで「真の人間」がそこに出たとき、
その思うところ、感ずるところがことごとく神示であります。ある宗教ではこれを「神格の内流」と
言って霊媒の霊示とは区別しているのであり神示は内流であって大脳に感応し、おおむね直覚的にあらわれます。
霊示は外から延髄に感応しおおむね霊媒式、二重人格式にあらわれます。
神示は対立を絶した内からの啓示でありますが、霊示は第二者、第三者などの対立せる人格からの意見であります。
神示は、我執に対して答えず、我執を捨てたとき、おのずから現われるものでありますが、霊示は我執にも答えてくれ、
時々的中の明答を得たり、見当違いの答えで背負い投げを喰うこともあります。
ともかくも、学校教育などのごとく人間の先生に教えを乞うこともよく、霊媒によるがごとく霊界の先生に教えを乞うことも
よいのでありますが、学校の先生の教えにもまちがいがあり、霊媒の答えにもまちがいがあります。
ただまちがわないのは、われらの「神格」の内的啓示に照らして行動するのがよいのであります。
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