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聖典引用 板

294「訊け」管理人:2012/03/26(月) 16:29:53 ID:PgLin6Xs

――榎本恵吾曰く、
 現象なしとは内から輝く実在の光りなのである。實相自らの自発の輝きの喜びの光りなのである。現象なしとは實相に到達するためのプロセスではない。實相から輝き出でたる輝きである。これが實相自ら顕われる顕斎ということである。これが人類光明化運動の自発であることの意味内容である。光りばかりの世界で光りが光りする生命の純粋持続としての光りの運動なのである。現象なしとは中心より出でたる生命の輝きの放射なのである。現象無しでは「虚無に陥る」とはインドの話であって、中心、天皇のいない国のことである。この輝きは教団や組織形成以前よりの存在である。現象なしも實相独在もはじめからある尊師のいのちの輝きの放射として出て来た言葉であり、この言葉を発してからそれになったのではないということである。自発的とは先づある光りのすがたの世界である。運動も運動をしてから光りがもたらされるのではなく、運動そのものが先づある光りの表現としてあるのである。内容は光りばかりなのである。・・・(中略)・・・われわれは組織の数量的発展拡大を通して『生命の實相』を見ようとするようになってはいないだろうか。つまり『生命の實相』の素晴らしさというものを現象的現われによって測るようになってはいないだろうか。


――尊師曰く、

 吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。

『生命の實相』第一巷4頁より謹写


――榎本恵吾曰く、

 此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。・・・(中略)・・・この『今』と云ふ宇宙万物発生の枢機を握る一点を生きる神の子の消息を『生命の實相』第八巻で尊師は次の如く述べて居られる。

『波状光明化への道』12項より謹写


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