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聖典引用 板

2689a hope:2013/11/30(土) 17:18:27 ID:/9IAdiFk

増捕新かな版 詳説 神想観 谷口雅春先生著 (日本教文社)

第五章 神想観と聖典読誦と感謝行並びに愛行P186〜


【神想観と聖典読誦】 神想観の根本として大切なのは聖典を充分お読みになることです。先ず、『生命の實相』を繰返し噛みしめてお読みになり、自分の「生命」の実相(ほんとうのすがた)が物質ではなく、神性であり仏性であることを充分現在意識に理解しておいて神想観しなければなりません。神想観は、「自分の内に神の生命流れ入って、自分の生命となっているのだ。自分の生命と神の生命とは一体である」ということを呼吸(いき)をととのえ、精神を統一して念じて、潜在意識の底の底までも、「我れは神と一体である」という自覚を得させるのでありますが、しかし現在意識は、何と言っても主働者でありまして、現在意識そのものが、「神とは何だ」ということがハッキリ理解されていませんでしたら「神と一体だ」と言っても、一体「何と一体だか」わけがわからないことになります。だからどうしても『生命の實相』を充分味わって読み、「神」というものをよく理解した上で「神と一体だ」と念ずる神想観をしなければなりません。

「神想観」をするということと、『生命の實相』の教えを読み、如来すなわち神の子たる者の生き通しの生命を悟ることは両方から互に相寄って吾々の信念と理解とを深めてくれるのであり、どちらも忽(ゆる)がせにすることはできないのであります。

生長の家は「神想観」」ばかりしていたら好いかというとそうでもない。「神想観は神想観を教える」と同時に、「神想観は日常生活を教える」ので、日常生活の意義が一変するのです。心の姿勢を正しくすれば、身体の姿勢は正しくなり、身体の姿勢が正しくなれば、常住坐作進退(じょうじゅうざさしんたい)、法にかなうことになり、従って実生活も軌道にのり万般の事物順調に行くようになります。しかし山に籠って自分だけ悟る式の神想観ではいけませぬ。これは「人類一体」の実相を如実に生きないことになさるのですからひとりよがりに陥らずに、市井(しせい)に交じって道伝えに努力し、「全人類が未だ悟らないのは私の努力が足りないからだ」と言いえる境地にならなければなりません。そのために人に真理を充分説き得るように真理の書を詳しく広く読むことも必要です。

「生長の家は静座法だ、坐り方だけ教えて貰えばそれでよいのだ」などと安易に理解されないようにすることも必要です。講演のみに偏ってはならないし、同時に神想観だけに偏ってもならないのです。脱線して行く誌友たちは、どちらかに偏りがあり、自分免許で悟ってしまって、「すでに得たり、もう得る処なし」と考えるからで、もう得る処がなければ、与える菩薩行をなすべきなのに、それをわすれ、自己満足した結果でありましょう。


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