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聖典引用 板

1581復興G:2012/11/07(水) 19:25:24 ID:vWpLkCzM

<第8回 WEB誌友会用テキスト>
 『生命の實相』 第2巻「實相篇下」より (13)
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がこれでもわかるのであります。

 このように信念を変えれば、肉体が変わる、信念で「善い」と信ずれば、物理的には害のあるような行為もかえって健康によい結果になるのであります。
 それではわれわれは、「こうしたらば健康に悪い」とか「よい」とかいう判断を物理的にはしないようにし、心の力によって、いっさいを「健康に善い」と信じ、信念の力によって実際そうならせようではありませんか。
 なんの術を施してもらうのでもなし、ただ『生命の實相』や『生長の家』誌を読むだけで肉体の健康状態が一変し不治の病も全快する実証が続々あらわれるゆえんも、真理を書いた本を読めば皆さまの信念が変わるからであります。
 おそらく本書のこの一節を一度お読みになっただけでも皆さんの信念は大いに変わられたであろうと思います。
 病気の読者はできるならば本書を三度でも五度でも、信念が心の底から大いに変化してくるまで繰り返しお読みになれば、今までの「病的信念の影」であるところの肉体の病的状態は一変して健康状態に化するのであります。

    神の子たる人間に病気はない(p.32)

 本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない、本来治っているのであります。
 それにあなたが病気だというならば、それはあなたの「信念」にまちがったところがある、そのまちがった「信念」がちょうど活動写真のように影を映して、肉体に病的状態をあらわしているのであります。
 皆さんが仮に喀血や胃出血を起こしたならば、物質的に肉体という物質が損じて、その血の流れているパイプに物質的の孔が明いた、どうも手のとどかないところに明いた孔だからふさぎようがなくて困るなどとお考えになる一方に、どうも痰や咳や盗汗(ねあせ)が出て肉体が苦しいとか、胃が痛んで苦しいとかお考えになるのであります。
 ところがこの考えには非常な矛盾があるのであります――まずあなたは「肉体は物質であって、その物質に孔があいた」と考えていられますが、肉体が物質であれば、それが単に物質であるというその理由だけで、もう肉体は苦痛を感ずるはずはないじゃありませんか。
 物質は苦痛を感ずる性能がない。それだのに肉体が苦しいと感じられる。これこそ肉体が吻質でなくて「念(こころ)の影」(観念的存在)である証拠であります。
 念(こころ)が苦しいと感じていられればこそ、その念(こころ)のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは念(こころ)にあって物質にあるわけはないのであります。

 こうして肉体が「念(こころ)の影」(観念的存在)だということがわかれば、喀血しても何もあわてることはないのであります。
 「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのですから、それを適当の時に止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはないのであります。
 実際喀血とかなんとか、大いに身体に変調のある時にこそ「心」を落ちつかせて人間の本体が無限に完全な調節能力をもった「生命」(生きる力)であるという事実を「心」に描くべき時なのであります。こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。といって、一所懸命心をおちつけ精神を統一しようとして焦ったり力んだりする必要はないのであります。

 われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。
<つづく>


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