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聖典引用 板

452復興G:2012/04/18(水) 21:24:29 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「万教帰一の神示」ご講義 謹写<2>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〔講義〕

   本源の称は如何なるものか

 「われに姿かたちあるやうに言ふものあれどわれは姿なきものである」と、神示にありますが、これは神様とは如何なるものであるかといふことを示してゐるのであります。「われ」といふのは神様御自身を指されたのであります。時々神の姿を見たと言ふ方がありますが、本源の神様には姿がないのであります。それを無相と謂(い)ひます。無相だからどんな相(すがた)もないのかと思ふと、無相であるからどんな相でも現ずることが自由であるのであります。だから、神は無相にして無限相であるといふのであります。現象界の相のあるものはさういふやうに自由に姿を変ずるわけにはゆかんのであります。姿がないからこそ何にもさはりになるものはない、姿が限定されません。姿が限定されませんからどんな姿にも現れられるのであります。ところが現象界のものは時間空間に限定されて形が各々異つて独特の姿をしてゐる。ところが、神様は姿かたちがないから無限の姿を持つてをられるのである。また姿がないから一定の形の宮や神殿の中にをらねばならぬことはないのです。それで「吾れに神殿は不要である」と書かれてゐて、神様のお宮や神殿みたいなものは宇宙の本体神たる生長の家の神様には要らぬことを示されたのであります。

 既に古くからの誌友の人は御存じの方が多いと思ひますが、生長の家の「生」といふのは縦に生(の)びるといふ意味の文字であります。「長」といふのは横に「長く」延びる、即ち延長するといふことで横広がりの世界――「空間」を象徴してゐるのであります。縦につづいてゐるのが「時間」である。時間は縦に心の世界で象徴されるのであります。吾々のいのちを、お父さん、お祖父(じい)さん、曾祖父(ひいじい)さんと縦に遡つて行く。この遡つて行くのは時間的にさかのぼつてゆくのですね。吾々の現象的にあらはれてゐる生命の本質は「時間」の持続で出来てゐます。その時間を象徴するのに、何の某(なにがし)家の系図とか何とかいふ場合には、上から下へと縦に線を引いて、「時間」又は「いのち」の持続または継続をあらはすのであります。子孫から先祖に遡るといふ場合には下から上へと縦の線を引いて示します。かういふやうに、「時間」といふ観念は、吾々の心の世界で縦の連想を有(も)つてゐるので、それで縦の線を以つて仮りに時間を象徴的に表すのであります。

 さて十字を描きますと、此の縦に生(の)びる線が「時間」にあたるので、これが生長の家の「生」であります。「生」といふ字は、樹木が無限に生びるといふ意味が表されてゐるのであります。楠でも杉の木でも老衰することなく無限にのびます。それで時間の無限持続を象徴して十字の縦の線があります。これは時間の無限持続――即ちつづきであります。それから「長」の方は空間的ひろがりであります。かうして十字は持続と広袤(こうぼう)――「つづき」と「ひろがり」――「時間」の続きと「空間」的広がりをあらはします。この「時間」と「空間」とが十字にまとまつて、天球(あま)となり「家」を成します。その「家」即ち宇宙を形成してゐるのが生長の家であります。ですから、大宇宙全体のことを生長の家と言ふのであります。そして「生長の家の神」といふのは大宇宙の神といふ意味であります。別に「生長の家」といふ一宗一派の本尊の神といふやうな他宗と対立するやうな神ではないのであります。
<つづく>


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