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聖典引用 板
811
:
金木犀
:2012/06/10(日) 13:42:07 ID:j28jHRaM
本當の信仰についての神示
平和は内界にあるのであって、外界にあるのではない。外界は現象であり目眩(めまぐる)しく移り変る世界である。常に変移する世界を追ひ廻してゐて落着かうと思っても落着けるものではない。一世を支配する権力者の位置にのぼれば誰も自分を脅かすことが出来なからうと思って最高の位置にのぼってみても、高ければ高いほど不安であるのが常である。では、誰よりも下座の地位について、もうこれ以上は落ちようのない貧しい生活を送ったら不安がなからうと思って、乞食の生活を送ってみても、やはり不安は去るものではない。下座々々と心掛けても、一碗の食にありつくとき、尚、その一椀の食にすらありつき得ない同胞があることを思ったら、その一椀の食も安心して食べられないであらう。所詮は、高く上(のぼ)るも、低く下るも、比較上の世界に住む以上は、その人の心から不安が去らないのは当然である。
何故汝らは絕對の世界に住しないのであるか。目眩(めまぐる)しく回転する円周の世界を追い廻さないで、円の中心の世界に住しないのであるか。中心の世界に坐せば、上下左右天地四維(しい)のいづこに顕現するとも不安はないのである。『我れ神の子』の世界に住すれば、如何に高き位置につくとも高過ぎると云うこともなく、如何に低き位置につくとも穢されたと云う感じも屈辱の感じも受けるものではないのである。かくの如き『我れ神の子』の實相に参ぜしめ、無畏怖の境地に入らしめるのが本当の宗教である。
恐怖心を唆って遷善改過(せんぜんかいか)せしめるものは、それは一種の社会施設であり、刑務所であり、懲治場(ちょうちば)であって宗教ではないのである。宗教とは己が真性を自覚せしめ、上下左右天地四維いづれに動いても、いづれに置かれても、縛られない、恐れない、自由自在の『神の子』たる本姓を自覚せしめるものを云うのである。
汝ら恐怖の宗教に心せよ。神の子は、金剛不壊の実相身、無礙自在(むげじざい)の無罣礙身(むけいげしん)であるから、凡そ恐怖すべき何ものもないのである。恐怖を教えるものは迷を教へるものである。恐怖を唆るものは、迷を唆るものである。病気や天変地変や色々の災厄で恐怖を教へるものは人間の幸福が物質の増減で左右せられ、或は火に焼かれ、或は水に溺れるものだとの迷信に立脚して教をなすのであり、それを信ずる者は、それは信仰は信仰であっても、迷信に堕するものである。火にも焼けず水にも溺れず、天地四維上下左右いづれに置かれるも自由自在な人間の本性を信ずる信仰こそ本当の信仰である。 (昭和8年8月5日神示)
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