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聖典引用 板

445復興G:2012/04/18(水) 10:23:55 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生著『神ひとに語り給う』
  (神示講義 教の巻)より
「新天新地の神示」ご講義 謹写<2>

   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

   佛陀(ほとけ)とは何であるか

 さて宗教の定義は、自分自らを知ることの自覚を得させる教へだといふ事であります。その自覚を得たものが佛といふ訳です。佛といふと、「あの人は死んぢやつた。ああ佛さんになつた」なんて言ひますけれど、そんな佛さんぢやないんです。尤もあれも或る意昧から言ふと佛であります。人間は肉体を現してゐる間は、肉体といふものに縛られてゐるのであります。從つてまた物質の法則に縛られてゐるのです。飯を食はなかつたら腹は減るし、余り働き過ぎたらくたびれるし、眠らなかつたら辛い、……いろく肉体的な縛りといふものがある訳です。霊魂が肉体を抜け出したら、さういふ肉体の制約から、解放される訳です。さういふ意味に於て肉体の死んだ人は佛でありますけれども、しかし霊魂が肉体を脱けても、肉体を抜けたといふ事を知らずに、解放されないのがゐるのであります。さういふのを亡者(もうじゃ)といふんです。つまり未だ解放されてゐないのです。自分自身を「天上天下唯我独尊」の自由自在の存在であるといふ事を知らないで、そしてやつぱり肉体の中にゐて苦しんでゐる、といふ様な妄覚のままで霊界に行つてしまふ。この状態は永久に続くかどうか判らぬが、ともかく霊魂が霊界に往つても「何々といふ病気で苦しんでゐる自分だ」といふその想ひが続いてゐる間は、亡者である。「亡びたる者」である。「亡びたる者」といふのは、肉体があると思つて亡びないと思つてゐるのですけど、魂の方は亡びてゐる。つまり、人間みづからの生命そのものが、自由自在である神の子であるといふ事を自覚し得ないのでありますから、その自由自在性の霊なる存在を悟らんから、「霊なる存在」が亡びたる状態であるから、いはゆる「亡者」である、といふ訳であります。我々は亡者ぢやいかんですよ。
 今言ひました通り、肉体が生きてをつても肉体が自分であると思つてゐる者は、霊性の自覚がないから或る意味から言ふと亡者である。肉体といふものは、これは恒(つね)に亡びるものなのであるからです。肉体は亡びるものであつて、偉さうに言つて百五十歳長寿会に入会してをつたからとて、それでも、それ一杯ギリギリ生きてゐても百五十年だ。宇宙の長い生命と比べたら、実につまらんものであって、皆「亡びるもの」が肉体の人間なんだから、亡者即ち亡びるものと書いてある。だから、肉体が人間だと思つてゐるものは、みな亡者mortal(モータル)と言ひますね。それが不滅のものといふもの「亡びない者」immortal(インモータル)といふものになる事が必要なんです。それが即ち亡ぶる者から亡びないimmortalといふものに生れ更るのが、これが「新たに生れる」といふ事である訳です。宗教を定義して、「宗教といふものは個生命(個人個人の生命)が宇宙大生命と一体であるといふ事を悟らせる教へが宗教である」といふ風に定義する人もある。この定義は無論正しい訳であります。これは「汝自らを正しく知つたとき」自然に自分といふ「個」の生命が宇宙生命といふ「全」の生命との關係がわかつて来るのであります。自分の生命といふものが、単なる肉体に宿つてゐる五尺何寸、十何貫といふやうな――中には五十貫も目方のある、この前日本に来たプロレスのキング・コングみたいな人もゐますが――それでも、十何貫にせよ、五十貫にせよ、いづれも有限であつて、やはり「亡びる者」であります。如何にキング・コングでも、力道山にやられる。その力道山も終ひには誰かにやられる時が来るであらうし、またやられないでも死ぬ時も来るであらうし、人間を肉体だと見てゐる限りは、人間は所詮は亡びる者、亡者である。そこで此の「亡びる者」から「亡びない者」に移り変らせ、人間は肉体でない、久遠の生命であるといふ事を自覚せしめるのが、宗教である訳であります。だから、久遠無限の宇宙大生命と個生命たる自分とは一つであるといふ事を自覚する教へが宗教である、といふ訳であります。
<つづく>


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