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聖典引用 板

479復興G:2012/04/20(金) 12:46:46 ID:ojEbkDH2

<つづき>
谷口雅春先生『實相と現象』より
『「七つの光明宣言」解義』(15)

 だから、“七つの光明宣言”の第五ヵ条には、

  吾等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して、大自在の境に達し得ることを信ず。

 と、書かれております。人間は“神の子”として自己の内に“無限の可能性”を有するのですが、それを現実にあらわすには言葉の創化力を使うのです。すなわち言葉によって賞めるのであります。賞められると内在のカがでて来るのです。

 それは人を賞めてあげる。自分の兄弟を賞める。あるいは子供を賞める。赤ちゃんを賞める。これは生長の家の教育法で、既に無数の実績をあげているのでありますが、さらに、自分を賞めるということが大切でありまして、これを忘れている人が多いのです。この神想観の実修そのものが、実は自分自身を称め讃える行事でありまして、言葉の創化力を駆使して、大自在の境地に達し得るところの方法であるわけなんであります。すなわち“言葉の力”によって、

 「神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓び、無限の調和が充ち満ちている」

 ということを心の内に言葉で誦(とな)えて、その通りの想いを喚起し、神様の智慧が、無限の愛が、無限の生命が、無限の供給が、無限の歓び及び調和が、ズーと自分に流れ入って充ち満ちている有様を、心にハッキリ描いてジーッと心の眼で見詰めるのです。これは“言葉の力”と、“観”の力とを併用して、自覚が速やかに高まるようにした行法であります。

 “観”とは“心で見ること”であります。凡て観なければそれがあっても現れないのであります。
 どんなに宝物が一杯あっても、目を閉(ふさ)いでおったら、わからないのです。ところが、肉眼で見るものは現象であって、それには限りがある。この現象世界には吾々の色々の“迷いの心”がレンズのはたらきをして、“本当の姿”(実相)が屈折して、歪められて、そこに現れているわけであります。そのことを谷口清超先生の『人間の体験』という本には、次のように書かれてあるのであります。

   誤った常識を超えること

 「世の中には『常識論』と言われるものがありますが、『常識』の中にはよい考えも悪い考えも混在しております。たとえば昔は『人間は空を飛ぶことができない』というのが常識となっていたのであって、この常識をくつがえしてはいけないということになれば、今日の航空機の発達は望めなかったに違いありません。したがってこのような常識は打ち破ってゆかなければならないのでありますが……」

 いろいろの常識がこの世界にはあるのです。そして「病気がある」なんていうような常識も随分あります。その常識が形に現れているのです。この世界は心の現す世界でありますから、間違った常識は間違ったものを現す。そして色々の間違いがこの世界に現れているわけなんであります。現象世界は、殆どそういう間違った常識の現れの世界であるといってもいいのであります。

 そこで、そういう間違った常識の現れている世界に目を閉じて、そして神様のお造りになったところの「神、その創りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき。」と創世記の第一章に神が宣言されているところの、「全てのものが美しく楽しく、豊かに調和している」そういう実相の完全な世界を目の裡(うち)に描くのです。即ち心の世界に描くのです。そしてそれをジーッと心の眼で観ずるのです。見れば現れる、観ずれば現れるのです。すべて心に思ったものが、形に現れてくるわけのものであります。これを釈尊は“三界唯心”と説かれ、キリストは「汝の信ずる如く汝にまで成れ」とか、「汝の信仰、汝を癒やせり」とか仰せられたのであります。
<つづく>


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