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聖典引用 板
1411
:
うのはな
:2012/10/09(火) 19:24:17 ID:bZiCwTy.
『運命の原理』 谷口雅春 先生著 (投稿者 現代字に変更)
法と我とを分離するもの
法悦と云うものは天地萬物同根だと云う哲学などで殊更にそう感ずるのではなしに、
本当に吾吾の生命は悦びであると云う實感が湧いてくるのでなければなりません。
若しそれが湧いて来なかったら、何か霞のようなものを隔てて『法』を見ているのであって、
アリアリと『法』に直接接しているのではない。
一枚の紙があって『法』と『自分』との間に挟まれているようなものであるから、『法』そのもの
は悦びであっても法の本当の悦びと云うものが分らないのであります。ですからこの一枚の紙を剥ぎ取って
了う必要があります。その一枚の紙とは、我見と云いますか理屈と云いますか、兎も角も宇宙全体と一つにならない
ものがあって『法』とぴったりしないことを云うのです。
『法』とぴったりしなければ『法』そのものが悦びであっても、その間に挟んである紙を透してぼんやりと見たり、
或は三角ガラスを透光するような屈折作用を起して見るものですから、それが歪んで見えることになるのであります。
ですから、どんなに偉い哲学者であろうとも、またどんなに偉い宗教家であろうとも、生活に法悦のない人はまだ本物で
ないのであります。この儘この世界が寂光土と申された方もありますが、寂光と云う言葉ではその悦び満つる世界、法悦の
世界である。
ですから、『法』そのもの、實體そのものと一つになっていると、生きていることが悦びそのものであると實感的に感じられて来る
筈なのであります。『法』が悦びでありまして、『法』以外のものは何もないのであります。
ここに云う『法』とは所謂實在でありまして、實在そのもの、實在そのものの他に何もないのであります。
そして、實在そのものが悦びなんですから、實在以外の相がどんなに見えようとも、そんなものは無いのです。
それは要するに活動写真を見ているようなものなのであります。
そこで『法』と云うものと一體になっていると何時でも喜べる、何時でも喜べない人はまだ本物ではないのであります。
釈迦も王宮を飛出した時分はまだ本物ではなかった。三十五歳の十二月の八日暁の明星の光を見て、『みんな救われている、
有情非情悉く皆佛のいのちで悦びそのものである』と悟った。
この時に本物になったのであります。吾々もその境地に達したならば、不平も不満足も癇癪も何も起らなくなる、そして常に
有難く法悦に満たされて生きておられるのであります。
P160〜 昭和二十一年七月一日 初版発行
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