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聖典引用 板

1280うのはな:2012/09/12(水) 13:36:55 ID:q1/hjc9I
信仰の操を貫く 『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修

林 利男

 さて私の申し上げたいことは、信仰には“操と信念”がなくてはならぬということです。
私の考えているのはそれだけで、あっちへ行ったり、フラフラしたりするようなことじゃいかん。
生長の家は万教帰一だから、日蓮宗関係へ行っても、他の団体へ行って信仰の対象としても良いというような、
操のないことではいかんと思います。私が伊藤都連会長に褒められるとしたら、その操を貫いてきたということだけです。

 御承知の通り私は、今度の戦争で三度も焼け出され、六法全書と聖経と中聖典(『生命の實相』)一冊と若干の夜具のみの文無し
になり、「物質無」を徹底して味わいました。また、たった一人の可愛い大切な息子はまだ帰っていません。
現象的には逆境とみえましょう、それで、生長の家を離れて自分が別の教団をつくり教祖になった人が、私を仲間に入れようとして断られたあげく
自分の本に何と書いたといいますと、「生長の家の顧問弁護士・林利男を見よ。彼は生長の家の誌友であるけれども、一人息子を死なせ、戦災で三度も
焼けて倉住まいをしているようなみじめな生活をしているじゃないか」と書いています。

 またある婦人は最近、「林さんはいっこうに幸福になっていない。生長の家の教えが良けりゃ、林さんなんかもっと幸福になってなきゃならんのに」と
言うわけなんです。

 しかし私は、現象的に逆境とみえるそんな体験を、私の魂を磨く糧としてありがたく受けているんです。
寂しくも何ともない。一人息子はいませんけれども、毎日陰膳をすえて三人ともに食事をしていますし、夫婦して喜んで生活しています。
ですから、そんな現象上の不幸でよろめくような信仰だったら、やめたらよいと言うんです。
家が焼けたから信仰を失うとか、身近に病人があり、現象の肉体を失うものならやめた方が良い、と私は申しております。

 前回も申上げましたが、紳士録の宗教欄に私は『生長の家』と出しています。
私の家は代々浄土真宗ですが、私は死ぬまで、否二世三世、未来永劫に生長の家の誌友と確信しておりますから、馬鹿の一つ覚えと
言いますか、操を通しているという私の信念の証しとして出しております。

 別に難しい理論の下に通しているわけでもなく、惰性でいるわけでもありません。
それが神への道であり、谷口先生への御恩返しの道であると、ただそれだけを考えて全ては神まかせに精進しているだけです。
谷口先生の前でこんなことを申上げては恐縮ですが、戦時中に多少、生長の家が弾圧されはしないかという傾きがあったとき、
もしものことがあったら先生と運命を偕にしよう、先生の御盾となろう、という覚悟でついてきました。

 故人の小永井先生が郡山警察に留置されたときも、私は行くばかりになっていましたが、必ず釈放されると念じていて、まもなく
釈放されました。そういうしだいで、私としましてはつねにみ教えと一緒にという決心で一貫して、信仰生活をつづけているだけでございます。


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