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聖典引用 板
2253
:
「訊け」管理人
:2013/05/06(月) 06:09:35 ID:???
(つづき)
「観ずる」ということについては、生長の家で行う行(ぎょう)の一つである「神想観」がまず思い浮かぶのですが、「神想観」は「神を想い観る」ということと同時に、「神が想い観給う」ということでもあるようです。神想観を始めるときに唱える「招神歌」にありますように、すべては神が為し給うのでありますから、自分はどこにも要らないのです。観ることも、自覚することも、感謝することも、すべては神が為し給うているのです。
「自覚する」ということも、「自覚」という言葉は自ら覚めると書くように、はじめの初めから、宗教をやるやらないとか祈る祈らないよりも以前から、そして今も生きとし生けるものとして生かされている實相なるものが「自ら目覚めて出てくる」ということなのです。内なる實相が自ら出てきて、生長の家の話を聴き、内なる實相が自ら出てきて、聖典を読んでいるのです。すべては外から来るのではないのです。内なる實相がそのままどんどん出てくるのに任せればよいのです。出てくることが、自覚が始まっているということなのですから、それを勝手に自分でああしてから、こうしてからと邪魔をしないことがすばらしいのです。ただただ喜んでいるだけでよいのです。言い替えれば、喜んでもよいということなのです。實相だけでよいと喜んでいることが感謝ということなのです。「感謝せよ」とは「喜べ」ということに他ならなかったのです。喜びとは自分は要らなかったということであり、すでに完成している實相を遠慮しないこと、そのままでよいことを遠慮しないことであったのです。遠慮しないのは神のためであって自分のためではないのです。そのまま今喜んでよいということでなければ、神は今完全な世界を生んでいないということになり、不完全なものしか生めなかったものは神とは言えませんから、神は無いということになってしまうのです。ですから、實相円満、そのままでよいということを認め喜ぶのは自分のためではないのです。神のために遠慮しないようにしなければならないのです。喜びましょう。喜びましょう。すべての不完全は不完全なるがゆえに無いのです。無いということは、今赦され切って、生かされているということなのです。
ああしてから、こうしてからは止めて、今そのまま素っ裸のままで喜ばせてくださるのが生長の家の御教えなのです。
どんな善いことでも、ああしてから、こうしてからは要らないのです。善いことをたくさん身にまとっていくと、だんだんと裸でなくなっていくのです。実はこの善いことが曲者なのです。「感謝してから」「我を消してから」「懺悔してから」「潜在意識を浄めてから」「教えを実行してから」「実感してから」「愛行をして徳をたくさん積んでから」「先祖供養してから」「祈ってから」「信仰に徹してから」「實相を観じてから」「實相を自覚してから」……。まだまだ立派な善いことを掴んではいないでしょうか。それをすべて吐き出して、脱ぎ捨ててしまいましょう。死んだつもりになってすべてを捨てるのが生長の家です。そしてゼロでよいのが無我ということなのです。ゼロということは何も要らないということです。自分も要らないということです。
<了>
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