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聖典引用 板

2617a hope:2013/10/27(日) 14:59:08 ID:/9IAdiFk

生命の實相 第27巻 久遠物性篇上 

第七章 久遠を流るるいのち

十 トライアンの著作について (より抜粋 P166 7行目〜)

・・・わたしがトライアンのニュー・ソートの本の一つを得たのはわたしに悟りの精神革命が起って「生長の家」をはじめてから後、偶然の機会に、それを古本屋で見出し、立ち読みしてみると、生長の家の思想にソックリのことが書いてあるので、買う気になって持って帰ったのが最初である。

そののち彼の行文がわたしが『生長の家』を書く参考に大いになったものであるが、読み行くにつれて、三十年前日本で『ブッシング・ツー・ザ・フロント』などで有名であったマーデンの著書の文章の一節を始めから終りまでソックリそのままの文句がなんら引用符をもなしに転用させられているのにわたしは驚いて、マーデンの本を引き出して対照してみたこともある。

マーデンとトライアンとは全く同じことが書いてある。

マーデンは平易で通俗的であるが、トライアンは文体が高尚で哲学的である。

その後、わたしの手許に他の著者のニュー・ソートの著書も多く集まって来、それらを読破するにつれて、これらの本はどの著者も悉く同じような文体で、少々ばかり表現を変えていて、実例や比喩までも往々同一なものが混って同じ思想を述べているものであることを発見したのである。

したがってもしわれわれがニュー・ソートを援用する場合において「何某の著述はかく言う」ということはかえってその独創者を誤らしめるくらいである。


ニュー・ソートはかくのごとく十九世紀の前半において米国の書籍店中の書籍の半ばを席巻するほど広く氾濫したらしいのであるが、それが仏教と称せずして実は仏の教えの英国への浸潤であったことはすでに述べたとおりである。

しかし、それはたとい、仏の教えであっても、ラジオの受信機が異なるごとに、その音声に一種の癖をもっているように、その神髄は仏の教えであっても、その悉くが、(その雑音までもが)仏の教えであるわけがない。

ニュー・ソートの著者においても、物質無をといているものもあれば、物質有として汎神論を説いているものもある。

仏教においても、真言宗も、天台宗も、禅宗も、浄土宗も、真宗も、日蓮宗も、そのいずれも仏の教えであるに相違ないが、その悉くが(その雑音までもが)仏の教えであるわけはない。

われわれはただそのうちから「久遠を流れるいのち」を見出し、それに触れ、それに合流すればよいのである。


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