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聖典引用 板

117ハマナス:2012/01/12(木) 23:47:40 ID:u5mC.eb2
神の子の皆さま、

ありがとうございます。ご無沙汰をしております。
この1か月の間に、色々の事が明るみに出てきました。一信徒として祈る事以外に何も出来ませんが、
教団のトップの方々と生命の實相派(?)の方々が歩み寄られて、是非雅春先生の意思を継いで頂きたいと、
切に願っております。

新春練成会に参加して、日本国と生長の家の実相顕現を祈ってきました。


一 月 十 三 日          (生命の實相第三七巻より)

 高邁な超越的立場を持する者も、時として戦うことがある。凝り固まった相対的立場

にいる者は一切包容の立場をも、一つの別の相対的立場と思いちがえて反撃してくること

があるからである。生長の家がどの宗教をもそれぞれの立場において宜しとして未だかつ

て一度も排斥したことがないのに、生長の家を新しく興った一派の宗教として反撃するも

のがあったのも同じような理由からである。しかし、今となっては生長の家のあらゆる宗

派に対する寛容な全包容的立場を理会しない者がほとんどない。どの宗派も生長の家に好

意をもっているし、生長の家がとり来たった宗教に実生活に生かすやり方をおのおのの宗

旨に取り入れない宗派はない。

 すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。宗教が生活を離れるのは時代を離れ

るからである。時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門ではない。時代を離れたところに禅行も念

仏も死の行となる。生かさぬものは宗教ではない。隻手の拍手よく三千大千世界に響くと

いえども、実生活を救いえない座禅もあり、死骸に念仏することのみを知って、生きた

人間には念仏どころか同業を嫉妬し、瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、今は

それがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。念仏とは、相手に合掌して

仏をその相手から拝み顕(あらわ)すことである。常不軽菩薩の行である。


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