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聖典引用 板

1972SAKURA:2013/01/25(金) 10:23:08 ID:vHmGGzRQ
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
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>>1966>>投稿の続きです…。

ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。

■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』   
===【生命の実相…2巻 抜粋】============================

■【五感的存在の否定】   その②
>>われわれの眼にカーブが曲って見えたり、直線がまっすぐに見えたりするのも、われ
われの眼球がまん円い結果であって、眼球をまん円く」ないもの取りかえるとすると、カ
ーブの方がまっすぐに見えたり、直線の方が曲って見えたりするのであります。するとわ
れわれが曲線だ、といっているのも、その線そのものがまっすぐなのであるか、曲って
いるためであるかは五官では判別できない、ただそれはわれわれの眼の球との関係上、そ
う見えるにすぎないのであります。時間的長さも空間的形態も、このようにわれわれの知
覚機関との関係上、相対的にただそう感じられるだけで存在(もの)の実相(ほんとのすがた)
はわれわれの五官ではしることができないのであります。  (一部抜粋)
=============================================

■■ですので【現象での物事】は、それぞれの見た事だけを、認めない見方です〜〜〜ョネ!
人によって、その人の“心の捉え方”で、【人生が短くも!長くも!ある事となり、現象での五官
とは、五感で見る事になりますよ〜〜〜ネ!!
そうして考えますと、やはり【時間の使い方…】は“楽しい心”を伸ばすことは、
【心=実相世界に入る事】でしょうか??やはり無理して“環境”の合わない人とは、避けていき、
どうしても避けられな状況の場合は【心の眼で実相…】を見て【祈る…】だけでいいと思います。
何故なら、今の私は、彼らの「世界観が理解できないし、そして、それは私に取り、理解出来無い
世界ですから」と思います。■【 時 間 の 観 念 は 心 で 決 ま る 】のでしょう。

===【生命の実相…2巻抜粋】==============================

>>先生は、さらに五官を通じて存在(もの)を見る心は{迷わしの心}であって、存在(もの)
の実相(すがた)を観る心ではないことが分かるのであります。
≫≫五官の感覚で見たりしたところのものを存在(もの)の実相(ほんとのすがた)だと
思ってはならない。   (一部抜粋)
===========================================

■■この様に「雅春先生…」は、私どもに指導しておられますので
【心の眼で見る事は、やはり“神想観”でしょうかと??神に“心…”を振り向ける事!!】が、
これが、一番の“かなめ”かと改めて思う次第です。…が?
                               つづく


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