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聖典引用 板

3026a hope:2014/07/17(木) 11:00:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『自我のおきかえ』p179

法界を覆う英知に達して、善を完(まっと)うするのは、人間(肉我の)にはできないことであるが、神にしてのみ能(あた)うことである。

なぜなら、神ははじめから法界を蔽うすべてを尽しているからである。

しかし神が善をしても人間が「善」をなさなければ、人間生活にはなんの関係もないし、道徳の対象にも、倫理学の対象にもならないのである。

そこで「善」をなすには、「神」を人間の「思い」の中に「行為」の中に持ち来さなければならない、神を人間に実現するを要するのである。

神人合一境である。

肉の人間が棄揚(きよう)せられて神が実現されるのである。

自我の転換である。

復活であり、悔い改めであり、廻心(えしん)である。

小慈小悲(しょうじしょうひ)もない自分からクラリと転じて、仏と合一することである。

小我の力で行った善を、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の善であるとして軽蔑してひたすら阿弥陀仏の方へ振り向いた親鸞(しんらん)聖人の心がここにわかるのである。

全法界を覆う能わざる小知で善をなしたと小善ぼこりをしても、必ずそれは悪に変じているのである。(もっとも「悪」とは積極的存在の状態ではない。心が全法界に達していないという消極的状態なのである。心がそこに達しさえしたら、もうそこは善となっているのである。)


人間の小知は決して全法界に達せざるがゆえに、根本的には善をなすことができない。

重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず」のごとく人時所(にんじしょ)の三相応を得(う)ることができないのである。

そこで唯一の善は飛躍をすることである。

そこで親鸞は小善奉行を雑行雑修として振りすてて、如来の方へ飛躍したのである。

飛躍するまでは親鸞といえども有限知の葛藤に悩んで、六角堂の観音に日参したのである。

禅宗では公案をつくりことさらに矛盾難関を構えてこの飛躍の修行をするのである。


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