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聖典引用 板
109
:
a hope
:2012/01/10(火) 21:44:48 ID:kcv2QXTk
○どんな苦労があっても、因縁によって世話させて頂いていると思えばありがたいばかりの一筋である。
人間は他のために苦労させられているのではなく、自分の魂を高め上げ、
清め上げるための修行として苦労を恵まれているのである。
学校は先生のために勉強するのではなく、生徒自身の向上のために勉強するのである。
人生は魂の勉強する学校である。
苦労は教科書であり、苦労させてくださる人は皆自分の先生である。
われわれは苦労させてくださる人に感謝して拝まなければならない。
これが解ったら世の中にありがたくないものは一つもないのである。
これが解ったら人生は幸福なばかりである。
豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。
○病気を口実にしているようでは病気は治らぬ。
○感覚の歓びを追うても飽くることを知らないのは、感覚の歓びは本来ない喜びであるからである。
本来ない歓びをいくら積み上げていっても、けっきょくわれわれは空虚の歓びを感ずるのであるから、
渇欲飽くることを知らずに追い求めることになるのである。
○因縁の理がわかっても、まだ因縁にとらわれている者は縁覚であって正覚(ほとけ)ではない。
正覚(ほとけ)は因縁の理を説きながら「本来因縁なし」の実相を悟れるものである。
縁覚は因縁の理を悟り、因縁を追うてなお因縁に墜落する。
(「智慧の言葉」より)
「生命の實相」第8巻 観行篇 p15〜 より
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