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聖典引用 板

3073a hope:2014/10/19(日) 08:10:26 ID:cEpBaIdo
>>3072つづき)

(谷口雅春先生解説)

生長の家は菩薩道であります。
特に爰(ここ)に注目すべきところを申しますと、「各員」と書かれてあるのは、幹部も新しい人も、総べてのメンバーと云う意味であります。
だから信徒というようなはっきりとした信者じゃなくても、誌友と云う人たちも今日初めて
新たに道場に坐って光明思想を聴く人も皆、「各員」であります。

その人達が偶々(たまたま)因縁に依って「生長の家」の運動に参加し、
(これは、参加といっても、こうして此の思想信仰に触れられたのも参加でありますが)
何の為に皆さんがこう云う生長の家の運動にふれる様な因縁になったのであるか、
と云うことを考えて頂きたいという訳であります。

まず最初に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し、或は御教えを自己の生活に行ずるに止(とど)まるところにあるのではなく、
「それも勿論であるが」と書いてありますが、決して一身一家の幸福繁栄を念願したらいかんとは書いてないのでありますから、
一身一家の幸福を求めることを遠慮する必要はない。
それを求めることは、当たり前が当たり前の事にして「勿論であるが」であります。

そして御教を自己の生活に行ずることによって一身一家の幸福繁栄は来るのでありますが、
たんにそれに止まるといかんと云うのであります。
其処が菩薩の道であります。
「生長の家」の教えは、まず「自分」がクラリと転回しなければならないのです。
「生長の家」の教えは、まず自分に深切であれという教えなのでありますが、
自分自身に深切であれと云うことは如何なることであるかと云うことを考えねばなりませぬ。

その「自分」とは如何なるものかを本当に知ることが肝要(かんよう)であります。
肉体の病気が治ることも、一家の貧乏が治る事も、家族が健康になることも、家業が繁栄することも、
一身一家が幸福になるという事も一応は「自分に深切である」けれども、その「自分」と云うものを見直して、
それを出来るだけ正しく大きく生かして行くと云うことが、なお一層自分に深切なわけであります。

「自分」と云うものをただの肉体的存在だと考え、利己的生活だけを送って、一身一家の事のみ幸福になればそれで宜しいとは思って居る様な、そんな小さい「ニセモノの自分」でそれで宜しいと考えて居るのは、
それは余りにも「本当の自分」に深切でないと云うことになります。
「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」と云うものを、もっと大きく育てなければならないのであります。
(つづく)


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