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聖典引用 板
2336
:
志恩
:2013/06/01(土) 21:51:08 ID:.QY5jUA6
本流青年掲示板より
「そのままの心」について〜
第十三章 青年と真理を語る (2) (394)
日時:2011年08月14日 (日) 21時28分
名前:さくらふぶき
人生の目的と、神の愛を生きるには
岩間 人生の目的というのがよくわからないんでお訊きしたいんです。
愛行そのものを人生の目的として愛念を実行すること、それから神様と一体となる、そういうような実感を得るのを人生の目的とするかということ、
そういうことでいろいろ悩んでいるんですけど。
それでどうも生活がちぐはぐになっていくのを引きしめるために、どういうふうにして目的をたてていくかということをお聞きしたいのです。
谷口 人生の目的という問題は、いつも講習会で一日の講義の課題になっておるのでありまして、それを唯今の短時間で全部話すということは、
ちょっと難しいんでありますけれども、
大体もう予備知識もある方だと思いますから簡単にいいますと、人間は神様の自己実現であり、
しかも最高の自己実現として、万物の霊長として現れているのであります。
そこでその神というのはいかなるものかというと、「神は愛なり」とキリスト教ではいいますし、仏教では仏心とは大慈悲心だともいいます。
その大慈悲心そのものの顕れが観世音菩薩であるといわれているのであります。
だからキリスト教でも仏教でも慈悲とか愛とかいわれるのが仏様や神様の内容を為しておると見ていい訳であります。
それで神の愛を人間が実現するということは、人間が地上に顕れたところの究極の目的であるといえます。
愛を本当に実現し得た時に、人間は本当に深い喜びを感ずることが出来るのはそのためであります。
そこで愛を実現するには、どうしたらいいかということになるのでありますが、
これは趙州和尚が「平常心是道」と言ったように、先ず第一、平常の心――そのままの心――を大切にすべしというのが、
あの生長の家の信徒行持要目に書いてありますが、「そのままの心」というのになることです。
「そのままの心」です。「そのままの心」というのは〇(ゼロ)の心であって、〇(ゼロ)っていうのは一体何かというと、我というものが無い心です。
我というものは一種の個人主義を持っています。そして肉体的な性格を持っているのであってその自己中心的な性格を一遍精算してしまって、
これから必ず人の為にだけなることを実行致しましょうというように大決心をすることです。
その大決心によって「自己中心的」な自分というものを自己抛棄し、捨て去って、そこから自然に動き出してくるのが「
本当の平常心」「そのままの心」ですね。
自己愛や利己心もそのままにあるのが、「そのままでいいんだ」と、
そういう「そのままの心」じゃなくって一遍「ニセモノの自分」を捨ててホンモノの「そのままの心」ですね。
そのまま自我の我というものがなくなって、〇(ゼロ)になったときの「そのままの心」です。
無我になると、そうすると物事がなんでもスラスラといくようになるのです。
なんでも我というものがあるとスラスラといかない。
自分の「我」の形に引っかかるわけです。
そして周囲が「我」の形にぴったりと添うてくれなかったら、摩擦がおこってうまくいかない、
つまりチグハグになるのだから自分というものをまず〇(ゼロ)にするんですね。 つづく
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