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聖典引用 板

432金木犀:2012/04/17(火) 10:53:42 ID:zilIu2tA
『神真理を告げ給う』から
「第一章 宇宙及び人間の創造について」の一部(3)

けれども、それを神が人間に罰を与えているのだと考えてはならないのである。“わたし”は愛であるから“罰”を与えたりはしない。“わたし”は人間の魂が墜落しようとするのを、ある方法で引き留めようとしているに過ぎない。病菌と見える者は、“わたし”が墜落しかけている魂に、墜落してはならないという電報を配達させるためのメッセンジャーに過ぎないのだ。

それは神の罰でも神の鞭でもない。それはかみの救けの綱であり、墜落を防いでやるためのガードレールのようなものである。



“わたし”は“愛”であるが、同時に智慧であり、また生命である。それは物質の世界に於いては熱とあらわれ、、光とあらわれ、エネルギーとしてあらわれている。“愛”が先でもなければ、智慧が先でもなければ、生命が先でもない。光と熱とエネルギーとが相互に一体であり、どの相(すがた)にも交互にあらわれ得るように、“わたし”は愛ともあらわれ、智慧ともあらわれ、生命ともあらわれる。愛と智慧と生命との三つが同時に一体となって万物を生かしているのである。



“わたし”は一切の現象の中に“わたし”の智慧と愛と生命とを顕現している。“わたし”を見たければ森羅万象をみればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも“わたし”の創造した万象の“真実の姿”を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で“雲”をつくって“真実の姿”を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を閉じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。


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