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聖典引用 板

3027a hope:2014/07/18(金) 22:26:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

「香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)、飛躍の道」p180

たとえば『無門関』の第五の公案「香厳上樹」のごときはその適例である。
この公案は香厳和尚が「人が断崖絶壁の上に懸垂する樹に上(のぼ)り、口は樹枝(じゅし)を啣(ふく)んで樹よりぶらさがり、手も足も何も支えるものがないとき、樹下にあって、『祖師西来(そしせいらい)の意(い)如何(いかん)』と問うものがあればどうするか。答えざれば禅門の礼儀として問答に敗れることになる。答えれば、身を支えている口が樹枝を離れるがゆえに、断崖絶壁に墜落して身を喪(うしな)ってしまう」というので、「さてどうするか」という公案を提出したというのである。


右するも滅(ほろ)び、左するも亡(ほろ)びるのである。
形の上では逃れる道はない。
不可不の法則が両方から追い迫ってくるのである。
縦横厚みの三次元空間に生活している限り、逃れる道は断たれている。
もう絶体絶命である。
われわれはこの三次元空間を飛躍するほかに生きる道がない。
そこで飛躍が行われる。
われわれの生命はこの時、不可不の法則以外の世界における自分を発見する。
口に樹枝を啣んだまま、「ウーン」と彼は一嘯(いっしょう)するか、口を開いて「サタンよ、去れ!」と一喝するか―――どちらを選ぶか、他の方法によるか、それは形の関するところではない。
「形」の模倣では価値はなさない。
「形」はどちらをとるにしてもその人が三次元空間を超越した自己を発見していたならば、彼の前に世界が変貌するのである。

「飢えて死ぬか。悪魔にひざまずいて食を摂るか」これはイエスの公案であった。
かくのごとくキリスト教は禅的公案に出発しているのである。
イエスは「サタンよ、去れ!」と一喝した。
しかる時、サタンは去って、天使がイエスにつかえたと聖書は録(しる)している。
(つづく)


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