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聖典引用 板
310
:
「訊け」管理人
:2012/03/30(金) 16:53:49 ID:???
WEB榎本恵吾記念館「葩(はなびら)さんさん」より謹写――
釈尊の「まこと恨み心を以てしては、恨みを消すことはできない。ただ恨み無き心こそ恨みを消すことができるのである。これは永劫に変わらざる真理である」というお言葉には、誰しも“なるほど”と想わされることでしょう。しかし実際のところは、
「お釈迦さんは、その恨み無き心があるからいいよ。しかし、その恨み無き心になるのが大変で、困っているのではないか」
と言われる人もいらっしゃるでしょう。この釈尊のお言葉は「罪は罪によっては消えない。罪なきもののみが罪を消すことができる」ということを表わしているのだと思います。
さて、生長の家はどのようにしてこの恨み無き心を出してくる道を開いたのでしょうか。それは、恨み心や罪の心そのものは不完全であるが故に「無い!」という言葉によってこれを否定し、實相の實相自らの輝き出しによって恨み心を撥無したのです。そこには理由は無いのです。なぜ無いのかと問われても答えはありません。無いから無いのです。ただただその事実によるのみなのです。ですから、ただただ「そうか、そうか」と言っていればよいのです。恨み心によって恨み心はなぜ消えないかというと、最初から無いものは消えることも無いという意味において、無いから消えないのであると言うほかはないのです。罪は無いという事実によって無いと言えるのであります。
では、罪とはいったい何であるかというと、聖経『甘露の法雨』に書かれてありますように、「完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う」ということでありまして、神の造り給うたそのままの完全円満なる實相を包み隠してしまっているその「包み」が「罪」ということなのです。“ああしてからでないと救われない”“こうしてからでないと救われない”などと、未来という時間の向こうにすでにそのまま完全である實相を追いやって、喜ぶことを遠慮してしまっている状態です。ですから、あらゆる罪というものは、現象の不完全を責め足りなかったところにあるのではなく、そのまま今、円満完全の實相を喜ぶことを遠慮したところにあるのであり、實相を喜ぶことを遠慮しないことが実は本当の意味での「懺悔」ということになるのです。生長の家で行う「神想観」という行は實相を喜び感謝するのですから、これは最大の懺悔であると言えるでしょう。聖経『甘露の法雨』も、神一元の完全円満が書かれているのですから、これを読誦することもまた懺悔なのであります。
それでは、いったい此の罪の正体であるところの「包み」というものは、人間が努力して取り払わなければ神に生かされないものなのでしょうか。また、實相というものは包まれてしまって、縛られてしまって身動きのとれないものなのでしょうか。それでは實相が完全円満であると言うわけにはいきません。實相が完全円満であるのでしたら、自分で顕れ出てくる力も備えているはずではないでしょうか。とにかくこの罪、包みは本当にあって、これだけは自分で何とかしなければ救われないものなのでしょうか? そんな疑問と悩みを持つ人もいらっしゃるのではありませんか? その疑問と悩みを代表して、天の童子は天使に、「罪は実在なりや?」と訴えているのです。すると天使は「罪は不完全なるが故に実在にあらず」と答えたと、聖経『甘露の法雨』には記されています。
生長の家の教えは、罪の正体を暴露して無に帰せしめた教えであります。つまり包みが罪なのですから、「罪は無い」ということはそのまま「包みは無い」ということなのです。皆さんの實相から言えば、
「私は1度も包み隠されたことはありません」
と言っているのであります。それは解るとか、納得するとかしないとかの問題ではないのです。理解できないとか、納得できないとかいう罪も不完全なるがゆえに実在にあらず、すなわち無いということなのです。「罪は不完全なるが故に実在に非ず」と書かれてありますように、不完全という不完全は神が造り給うたものではないのですから「無い」のです。
ですから、實相を観じられないという罪も無ければ、包み隠してしまうという罪はもちろん、感謝が足りないという罪もありません。徳積みの足りない罪も無ければ、供養の足りないという罪も、潜在意識の浄まっていないという罪も、教えを実行できていないという罪もなく、与え方が足りないという罪もまた無いのです。
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